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象の耳 ~秋季号~ 「人民中国」に寄稿した朋友

2022年10月01日

2022年10月1日

「人民中国」2022年7月号に懐かしい方の寄稿があった。駐日本国中国大使館や駐福岡総領事館の総領事を務めた呉従勇氏である。彼はネパールやバーレーンの大使を経て、晩年は東京の日中友好会館中国側代表を経て帰国した。温厚で誠実、約束は必ず守る信頼できる人物であった。とくに福岡総領事のころ、彼とはとても深い交流をもった。なぜか気心が知れた仲になった私が訪ねた総領事室で、二人だけになると時事について議論を交わしたり、二人で福岡天神の屋台にお忍びで繰り出したり、私が薦める日中友好人士にサプライズで会いに行ったりしてくれた。突然訪ねてきた総領事に、先方は呆然とし、あたふたするさまを二人で楽しんだものである。

いつだったろうか、大分県別府市のビーコンプラザで「大中国展」を開催した際、私の求めに応じ開会式に来賓として参列。前日からごゆっくりどうぞという勧めに彼は、

「前日から行けば、忙しいあなたに迷惑がかかる。当日車で行くから大丈夫。安心してください。何時に着けばいい?」

「温泉でも入ってゆっくりしていただきたいのですが、わかりました。開会式は朝9時30分からになりますが大丈夫ですか?」

「わかりました。心配しないで、必ず行くから。がんばってください。」

そして当日9時ちょうどに彼を乗せたベンツは別府のビーコンプラザに到着した。出迎えた別府市長や市議会議長、日中友好協会長などと名刺交換しながら、私を見つけた彼は、左手で小さく敬礼のしぐさをしてほほ笑んだ。

一連のセレモニーが済んで短く立ち話。

「今日はありがとうございます。何時ごろ福岡を出発されたのですか?」

「余裕を見て朝6時に車で出発しました。」

傍らに控える武官でもある運転手の李さんもやや胸を張ってうなずいていた。

「それは、それは、申し訳ないですね。今度、またゆっくり、一杯やりましょう。」

「いいね、ぜひ。私にできることがあれば何でも言ってください。協力しますよ。」

県議会議員紹介のため近づいた日中友好協会長と入れ替わりに、私はその場を離れた。

あとで運転手である武官の李さんに聞いた。

「李先生、ご苦労様でした。遠かったでしょう?それにしてもあなたの運転は正確だ。」

「ありがとう。実は昨日、呉総領事から言われて福岡から別府まで高速道路を事前に走ったんですよ。絶対に遅れてはならないと厳命されましたから。」

「そうだったんですか。それは、それは、ご苦労様でした。」

「呉総領事が言っていましたよ。あなたを支援することが中日友好につながると。」

「ありがたいですね。今夜はゆっくり別府の湯を楽しんでください。美人の湯もありますよ。」「美男の湯はないの?」「男は顔じゃないですから」「ですよね(笑)」

私にはヘン?なこだわりがある。私は変わらない。この位置を動かない。どんなに親しく知遇を得た、たとえ総領事であっても、彼が異動したり、帰国したりしたら、相手から連絡がないかぎり、私から後追いし昔話を繰り出すことはない。思い出はひけらかすものでなく心に刻み置くものだと思うから。これは男の美学だと言ったら、妻から笑われたけど。要は手広く横に人脈を広げることが苦手で、孤高でもいい、まっすぐに生きていたいという、わがままなんだろうと思う。人は私を商売下手という。せっかくの人脈を活かさぬ手はないと。なるほど。すべて以前から言われ続けてきたこと。わかっているが、持ち前の頑固さがそれを阻む。こうして私は生きてきた。話がそれてきたので本題に戻る。

寄稿文のタイトルは「周総理が奏でた『バレエ外交』国交正常化を動かした訪日公演」

掲載文のまま転載させていただく。小見出しは「大成功した訪日公演」から始まった。

大成功した訪日公演

1972年9月25日午前11時30分。世界が注目する中、日本航空の特別機が北京首都空港に着陸。日本の第64代内閣総理大臣・田中角栄がタラップを降り、出迎えた周恩来総理と固い握手を交わした。その瞬間、この場面は戦後の中日関係のターニングポイントとなり、歴史に刻まれた。

国交正常化の実現は、中日両国の人々が長い間待ち望んでいた共通の願いだった。第2次世界大戦後、中日両国は歴史をかがみとし、過去を終結させ、未来へ向かい、新しい善隣友好関係を再構築するべきだった。しかし、東西対立により世界は長く冷戦という泥沼に陥り、中日関係も「人質」に取られ、正常化は遅々として進まなかった。

1970年代初め、こうした国際情勢に一連の重大な変化が起きた。中国が国際連合(国連)で合法的な地位を回復。ニクソン米大統領(当時)の中国訪問によって中米関係が雪解けし、世界に大きな影響を与えた。

冷戦体制に穴が開いたことに伴い、中日関係も新たな転機が訪れた。日本の各政党と友好団体は次々に集会やデモを行い、日中の国交回復を強く求めた。社会党と公明党、民社党は相次いで中国を訪問し、中国とともに国交回復のための政治三原則を支持すると発表した。また、自民党と野党の300人を超す国会議員が超党派による「日中国交回復促進議員連盟」を結成、政府に早期の日中国交回復を促した。

日本の政財界・文化界など社会の各界、各階層が行動し、日中国交回復を求めるうねりが巻き起こった。人心の向かうところ大勢となり、中日両国の指導者は毅然と歴史の流れに従うことを選んだ。互いに歩み寄り、歴史の好機という時宜を捉え、果断に両国の国交正常化を実現し、両国関係の新たな一ページを開いたのだった。

日本の日中文化交流協会と「朝日新聞」の招きを受け、孫平化を団長とする中国の上海バレエ団一行208人が72年7月10日、日本を訪問した。これは新中国の成立後、初めて日本へ派遣する大規模のバレエ団だった。幸いにも、私は代表団の随員として訪日した。

代表団は、1ヶ月以上かけて日本の各地を回り、クラシックバレエ形式による革命をテーマとした現代バレエ劇『白毛女』や『紅色娘子軍』、ピアノ協奏曲『黄河』の公演を行った。その記念すべき意義とは、この時の訪日公演が、思いがけなくも中日関係史上に残る『バレエ外交』という美談になったことだった。

その年の夏、日本は国全体が日中国交正常化を求めるうねりの中にあった。東京の羽田空港に代表団が着くや、日本の政界や文化界など各友好団体から熱烈な歓迎を受けた。その歓迎の人だかりであふれる空港で、ひときわ目を引いたのは、55年に『白毛女』をバレエの舞台で上演した清水正夫・松山樹子夫妻が率いる松山バレエ団だった。

その懐かしい顔には、久しぶりに再会した旧友を歓迎する抑えきれない喜びの笑みがあふれていた。代表団は、日本に到着した日から友人たちの熱烈な友情に取り囲まれ、日中国交正常化の実現を求める日本社会の熱い思いをひしひしと感じた。

主催者側の日中文化交流協会と『朝日新聞』は7月12日、代表団のために盛大な歓迎レセプションを開催した。日本の全国各地からやってきた各界の友好人士約2000人が出席した。会場は熱気にあふれ、これまでにない盛況ぶりだった。中日双方はスピーチで共通の心の声を表明した。「中日両国民の友好関係を発展させ、早期に国交正常化を実現することは両国民の共通の願いであります。今回の訪問公演は単に文化の交流だけでなく、中日友好関係の発展にとっても奥深い意義を持ちます」。

 クラシックバレエと現代的なテーマを結び付けた芸術形式は、日本の観客に斬新な芸術の楽しみをもたらした。各地での代表団の公演は熱烈な歓迎を受け、会場は観客であふれ、好評を博した。毎回、公演が終わっても観客は会場からいつまでも去ろうとせず、先を争うかのように代表団のメンバーと親しく交流した。訪日公演は大成功をおさめ、中国文化を伝えただけでなく、双方が相互理解を深め友情を深めた。

 特筆すべきは、代表団が中日国交正常化を推進する上で民間の使者となり、国交正常化のために直接的な意思疎通の懸け橋となり、重要な外交ミッションを見事に果たしたということだ。

重要なミッション

 代表団の出発前、日本はまさに新旧の政権交代にあった。新しい首相の田中角栄は、先見性と卓越した見識、大志と決断力を持つ政治家だった。田中は首班指名選挙を前に、中国との国交正常化実現を公約していた。また田中は、当選すれば日中国交正常化の実現に力を注ぎ、自ら中国に国交正常化交渉に赴くと述べていた。さらに、第2次世界大戦中に日本が犯した戦争犯罪について中国の人々に謝罪し、両国の戦争状態を終結させ、国交正常化を実現すると表明した。

 田中は内閣が成立した7月7日、直ちに中華人民共和国との国交正常化を急ぐと表明し、またこれを田中内閣の三大政策の一つとした。田中のこの重要な動きに、中国側は素早く前向きな反応をみせた。周恩来総理はこの機会を逃さず、7月9日に行われたイエメン政府代表団の歓迎レセプションで、日本で田中内閣が発足し、外交面で日中国交正常化の実現を急ぐという声明を出したことは、歓迎に値するという姿勢を表明した、

 日本と何ら関係のない外交活動の場で中日関係の話題について言及したのは、外交史上で異例のことだった。周総理のこの発言は日本で大きな反響を呼び、中日双方の国交正常化実現への情熱を大いにかき立てた。

 周総理の指示を受け、日本の状況をよく知る代表団の孫平化団長は、日本の政財界や友好団体の責任者たちと休むことなく面会し、中日国交正常化に関する中国側の立場と態度をはっきりと説明し続けた。孫団長は行く先々で日本側の心のこもった対応を受けた。また孫団長は記者会見で、田中内閣と接触するため、今回の日本訪問では公演以外に田中(角栄)氏や大平(正芳)氏といった新旧の友人に会いたいと明らかにした。一方、日中国交回復促進議員連盟の藤山愛一郎会長は7月20日、都内で盛大なレセプションを開き、新たに中日備忘録貿易事務所の東京連絡事務所首席代表に就任した蕭向前氏と上海バレエ団の訪日を歓迎した。

 レセプションには、田中内閣の外務大臣だった大平正芳と通産大臣の中曽根康弘、国務大臣の三木武夫、さらに社会・公明・民社の各党首に財界首脳、各関係団体の責任者が皆出席。その格式の高さと満座の来賓客は、これまでにないものだった。大平大臣など多くの閣僚が中国の民間代表団を歓迎するレセプションに出席するのはまれで、これは紛れもなく中国側に応える行動だった。レセプションは熱気に包まれ、主客双方が心を開いて歓談し、国交正常化の早期実現という共通の思いを表明した。

 レセプションから間もなく、大平大臣は孫団長と公式に会見し、こう語った。

「私と田中首相は一心同体の盟友です。私は首相から外交事務の処理の全権を任せられています。田中首相と私は、いま日本政府の首脳が訪中し、国交正常化を解決する機が熟したと考えています。」

 これは田中内閣の成立後、初めての中国側への正式な態度表明だった。孫平化は国内の指示に基づき、中国側は田中首相が北京に来て直接周恩来総理と会談することを歓迎するとすぐさま表明した。大平外相は8月11日、再び孫平化と会い、田中首相が中国を訪問することと、代表団が帰国する前に首相自身が孫平化と面談することを正式に伝えた。

 代表団の訪日公演が終了し、帰国する前日の8月15日、田中首相は都内の帝国ホテルで孫平化と面会した。田中内閣の二階堂進官房長官も同席していた。孫平化は正式に周恩来総理からの招聘を田中首相に伝えた。

 田中首相は感謝を示すとともに、自分はすでに中国を訪問すると決めていたと述べた。田中首相は、中日両国は海を隔てて親しい関係を持ち、長い付き合いがあり、問題を解決する機は熟していると述べた。また、訪中によって大きな成果を収め、両国関係を順調に発展させることを期待した。田中首相の積極的な姿勢と体を張っての行動が、両国の順調な国交正常化実現の重要な推進力に一つとなったことは、その後の事実も証明している。

田中首相と孫平化の話し合いは心のこもった、友好的で熱気にあふれ、打ち解けた雰囲気だった。「田中首相訪中へ」のニュースはまたたく間に広がり、新聞各紙は一面トップで伝えた。つかの間、日本列島はこのニュースに沸き返り、世界は驚いた。中日両国の人々が長い間待ち望み、ともに努力してきた願いが間もなく実現する。これは中日両国の半世紀の長きにわたる不幸な歴史にピリオドを打ち、新たに善隣友好関係の大きな扉が開かれることを意味していた。

 代表団は8月16日、訪日公演の大きな成果を抱え帰国の途に就いた。そのルートは、本来は往路を逆戻りし、香港経由で帰国するはずだった。しかし、日本側の好意により、日本航空と全日空のチャーター機2機が代表団を上海まで直接送る手はずが決まった。これは、戦後初の中日間の直行便となり、同時に田中首相訪中のためのテストフライトでもあり、その意義は特別だった。中国人民の古い友人…、日中文化交流協会の中島健藏理事長や日中貿易に尽力した実業家の岡崎嘉平太氏、さらに両航空会社の社長、日本の報道機関の代表など多くの日本の友人が見送る中、代表団は日本側が手配したルートで帰国した。

 代表団が上海に到着した際、上海市の各界の代表約3000人が花束を掲げ、鳴り物入りで代表団の凱旋帰国を祝った。一つの民間芸術団の訪問・帰国が、このような歓迎を受けるのは異例のことだった。その後、これら全ては周総理自らの手配で、代表団を歓迎することにより、田中首相の訪中に歓迎の意を表す意味だと分かった。こうした周総理の周到で細かな心配りと深謀遠慮に誰もが感服したのだった。

 こうして上海バレエ団の訪日公演とともに、中日間の『バレエ外交』は成功のうちに幕を下ろした。ひと月ほど後、田中角栄首相の歴史的な訪中が実現、それに伴い中日関係も新たな時代へと入っていった。

 そして今、中日国交正常化から50年となった。この50年、両国の関係は盛り上がりもあれば低迷した時期もあり、紆余曲折の中、困難を乗り越えて前進してきた。50年前の過去の出来事と50年に及ぶ経験は、われわれに一つの道理を教えてくれる。それは、友好と協力は、常に中日両国が共同発展を実現し、ウインウインのための変わらぬ土台ということだ。

 両国の先人たちが心血を注ぎ、辛苦を重ねて共に切り開いた中日友好は決してたやすく得られるものではない。われわれはこれをいっそう大切にし、引き続き発展させていかなければならない。特に今日の国際情勢が複雑で変化に富み、世界が百年来未曾有の大変動に直面する重要な時期に、中日両国はさらに手を携え、国交正常化の初心を忘れず、歴史をかがみとし、未来に向かい、チャンスを捉え、新たな時代の要請に合致する中日関係を構築し、両国の繁栄と発展、アジアおよび世界の平和と発展に貢献していかなければならない。

(完)

物静かではあるが、強い情熱を秘めた呉氏の語り口がよみがえるようである。もう何年も会っていないが、「両国の先人たちが心血を注ぎ、辛苦を重ねて共に切り開いた中日友好は決してたやすく得られるものではない。われわれはこれをいっそう大切にし、引き続き発展させていかなければならない」。同じく思いはそこに尽きる。

日本と中国は、古くは「一衣帯水」、近年は「山川異域 風月同天」。ともあれ、呉従勇氏のご健康と益々のご活躍を祈る。ご縁があれば、また二人で一杯やりましょう。

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