象の耳 春季号 心の自由
2025年04月01日
2025年4月1日
彼は10歳の頃、父親に連れられて初来日した。
「私の息子ですよ」
出迎えた福岡空港で、紹介された初対面の私に向かって、彼はおずおずと右手を差し出し握手を求め、続いてはにかみながら、頭をペコリと下げた。
そして、たどたどしい日本語で、
「Wです。初めまして、よろしくお願いします」
憶えて練習してきたのであろう、一目で利発そうな子供だと思った。
その彼Wさんの父親とはかれこれ40年来の付き合いになる。
この際その父親は老Wとよぼう。老Wは中国の公務員で政府の外事弁公室、つまり国際交流部門に所属し、主に日本を担当。
当時は活発だった日中友好事業の一環として、対中国貿易見本市と、文化交流としての中国歌舞団公演の通訳として来日したのが、私との出会いだった。
以来、私たちは親しく兄弟のような関係になり、時には議論したり、酒呑んだり、時には一緒に温泉に入る、まさに魂胆ないハダカの付き合いを重ねてきた。
時は流れ1984年春の訪中時、セピア色にかすむ上海南京路の陸橋で1時間くらいたたずみ、老Wと私は激論を重ねたことがある。
眼下は通勤の自転車の大洪水だったし、やたらクラクションを鳴らす車の渋滞で大混雑だった。
「……中国人民に耐えがたい辛苦をもたらした日本の侵略戦争は心から猛省する。だが、あの互いに不幸な一時期には日中双方に思惑と複雑な事情もあった」
「……だからといって赦されるものではない。東北(満州)の横暴さをみろ、南京の大虐殺をみろ」
「しかし……、だけど……、そういうけど……、そらそうだが……、だよな……」
やがて、眼下の自転車の群れを指さして老Wは云った。
「とにかくこの人民に飯を食わせること、これに尽きる。早急に現代化に邁進すること。そのためにも日本の先進的な力と支援がいるんだ」
この年の秋、当時の胡耀邦総書記と中曽根首相の発案で中華全国青年連合会など、中国の3団体から招待を受けた日本の青年たち、総勢3000人に及ぶ大訪中団が派遣された。
日中の友好交流の歴史には、古くは遣隋使や遣唐使があり、19世紀末には中国から5万人近い若者が日本に留学している。だが、3000人余りの日本の若者が同時に訪中するというのは初めてだった。
これは中国の全人民を挙げて行う前例のない活動であり、また中国が開放改革の揺るぎない決心を示す場でもあった。
この快挙を知った私は老Wに電話し、喜びを分かち合った。
中国を知ること、課題についてともに語り合うこと。
そこに互いが不幸な一時期を余儀なくされた両国の溝を埋める近道がある。
それは老Wと私の共通した思いだった。
この総勢3000人に及ぶ大訪中団の派遣を機に中国人は、自分たちはいったい何ものなのか、改革開放とは何か、これまでの事の真実は、といったことを、自問するようになったのではないか?①

それから数年後、老Wの手配で私は私の考えを伝えるべく、また中国に向かった。
夜汽車を乗り継ぎ各省、各市の外事弁公室の幹部と連日対談した。
日本から、ヘンな考えをもつ奴だが、私の友人が行く。
万事円満に頼む、とでも云ったのだろう。
おおむね各地で歓迎されたが、中には明らかに公安と思える人間も同席した。
私が持論を曲げずぐいぐい切り込んだせいで閉口する者も。
激高する者もいたが、なるほど、わかった、ではどうしたらいいという回答も多くあった。
“小異を残して大同につく”。
私は敬愛する周恩来首相の教えを支えに、次世代の日中友好交流の姿を説いて回った。
昔話はきりがない。
話を現代に戻そう。
老Wとの変わらぬ交流の中で、息子のWがすくすく成長していることは楽しみだった。
彼が高校生になり寮生活を送っていた時、訪中した私は、彼の好物だという桃を買い込んで会いに行き励ました。
やがて大学合格を祝い、卒業祝いの宴を老Wと催したりした。
立派な社会人となった彼はなんと国際交流員として日本に派遣され島根県に赴任した。
もちろん島根まで会いに行った。
また縁あって私の娘が中国に留学した際、老WとWは親身になり、なにくれとなく面倒をみてくれた。
やがて国際交流員の任期を終え帰国したWは事業を立ち上げた。
それは大陸に住む中国人に日本語や日本の文化、芸術、生活様式を教えるというのである。
もちろんネットを利用したビジネスだった。
しかし日本語はもちろん、日本文化に造詣が深い彼でも日本語解釈で行き詰まることがある。
そんな時彼はメールで、中国の大学に留学して以来、交流がある私の娘にメールで教えをこいた。
娘は意味がわからない時は私に訊いてきた。
私はわからないときは図書館に走り、地元大学の知己の教授に電話した。
「尊敬語」「謙譲語」「丁寧語」のように敬語の中にも種類があり、状況によって日本語は非常に複雑だといえるだろう。
それにひらがな表記とカタカナ表記。
あいまいな表現含め、
“しんしん”、“ほっこり”、“おもむろ”、“もののあわれ”…、日本語は面白い。
そんな彼が2025年2月の春節明けに妻と二人で九州に来た。
日本は10年ぶりだという。
再会した私は、凛々しく頼もしくなった彼と、中国人にしては珍しく控えめな奥さまを歓迎した。
そしていろいろなことを彼から聞き、深くうなずいた。
彼の仕事はいわば”ネット塾“のようなものである。
いま10歳から30歳くらいまでの男女塾生・フォロワーが16万人いる。
北京・上海から、四川や蘭州、新彊ウィグルやチベットまで中国全土にいるそうだ。
すべてスマホでの交流である。
当初はネットに課題を上げ、それに基づいてマンツーマンでカリキュラムを進めていたが、真似する者も現れ、混乱も生じたことから、初歩的コースを修了した者には、W自らが作製した教科書を販売している。
教科書の進展に沿い、やりとりをスマホでより深く行う。
それじゃ事業の収入は?に、彼は、
「希望者に作ったランク別教科書を買ってもらっています。それだけで充分です」
「日本に憧れ、日本に興味ある若者は中国にたくさんいますよ」
「質問?たくさん来ますよ。すべて丁寧に回答していますが、わからないこともあります。だからこれからもよろしく(笑)」
いずれ留学や旅行などの相談や要望があるんじゃない?これは大きなビジネスになるね、に彼は、
「昨年も日本の予備校や大学関係者、旅行社、人材派遣会社などの方の問い合わせがあり、中には直接会いに来られた方もいました。
あっせんビジネスをしませんか、もったいない、儲けますよ、ウインウインの関係を築きましょう。
でもすべて丁重にお断りしました。
私は、ネット塾生にも一貫して言うのです。
留学や旅行や就職などの判断は自分で決めなさい。
私は一切タッチしません。
日本語や日本の文化、芸術、生活様式などが理解できたら、将来の方向は自分で決めなさい。
人に頼らず、人に扇動されず、自分の将来は自分で切り拓きましょう。
大切なのは自由。それも心の自由ですよ」
泰然とした彼の生きざまをに憧れを抱く中国の若者は多いはずだ。②

あえて事業を拡大し金儲けの道に走らず、自らの分というか、本分をわきまえながら、己の信じた道を切り拓いた彼を、この若さで私はすばらしいと思った。
しかしここでは聞いた彼の細部にわたるネット塾の展開方法については触れない。
日本のマスコミでは利にさとい中国人ばかりが喧伝されることが多いが、とんでもない。
泰然として先を見据える若い中国人が、あの大陸で育っていることを私たちは知らなければならない。
利休のいう“家は漏らぬ程度、食は飢えない程度でよろし”という格言を思い出した。
父親である老Wの訓えと生き様が、彼の根っこにあるのだと思った。
老Wと私が築いた相互交流の果実は確実に受け継がれている。
「いやそんな大それたことじゃないですよ。私は皆に助けられ、たまたまうまくいっただけ。できたらこの流れをウチの塾生が継いでほしいですね。孫子の兵法でもいうでしょ。彼を知り己を知れば百戦危うからずって(笑)」
話しに夢中になり、もはや冷めてしまった2杯目のコーヒーをすすりながら、私は訊いた。
「君にとって、一番大切なことは?」
「一番は家族の幸せ。次は平和。そのためにできることはやりたいですね。中国と日本は一時期不幸な事実、戦争したという事実があるけど、もうゴメンですね。中国と日本はお互いが援けあって今日を築いてきた。”兄弟“は大人になったから。」
「だよね。なんだかんだ言うけど日本と中国、仲良くしなければ、ね」
「一衣帯水、日中友好子々孫、ですよね」
「互いに寄り添うことだよ」
「寄り添う、わかります」
戦後80年。日本も日本人も大きく変わったが、中国も中国人も変わってきている。
国家の体制や思想の背景がどうであろうと、政治、経済、外交にいろいろな軋轢があろうと、日中双方の文化や芸術や生活様式の相互理解こそ平和の土台であり、その基盤の上に政治や経済がある。
微妙なニュアンスの違いはあるが、国家の指導体制がどうであろうと、両国民に、共生の心を育み、ともに寄り添う交流があるかぎり、進む道は王道となるだろう。
日本と中国に暮らす人間にとって、互いに何がもっとも大切か、若い中国人は確実に自由の意味を理解しだしたようだ。
この流れは誰にも止められないだろう。
少なくとも、先の不幸な一時期を猛省し、互いに援けあい、支え合い、励まし合い、日中友好=平和の希求がある限り、両国は永遠に手を携えて友好の歴違いない。
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