象の耳 新春号 両の巨星
2026年01月01日
象の耳 新春号
両の巨星
2026年1月1日
お健やかに新年をお迎えのことと拝察いたします。
今年は午年。
馬は本来、常に前進する動物であり、後ろを振り返らずに前へと進むその姿は、夢に向かって突き進む人の象徴でもあるといわれています。
あやかりたいですね。
ところで年末、悲しいニュースと、興味ある情報がありました。
悲しいのは、北九州市長を5期20年務めた末吉興一さんが12月14日、肺炎のため死去されたこと。
91歳でした。
末吉さんは東大卒業後、1958年に建設省(現国土交通省)に入省。
国土庁土地局長などを経て、87年の北九州市長選で初当選しました。
製鉄業の不振による「鉄冷え」で沈む街の再生を強力なリーダーシップでけん引し、
”北九州ルネッサンス構想”を市民に浸透させました。
24時間離着陸が可能な海上立地の北九州空港や、新産業の創出と地域産業の高度化を目指す北九州学術研究都市などを整備。
門司港周辺に残る古い町並みを活用し「門司港レトロ地区」として知られる人気観光地にも成長させました。
またJR小倉駅北口に整備した国際総合流通センター「アジア太平洋インポートマート」を開設。
2007年の市長退任後は内閣官房参与を務めました。
何度か末吉さんとお会いしたことがありましたが、文化や芸術に対しても造詣が深く、「中国の二胡はいいね」と目を細める、とても優しい方だったという印象があります。
ただ仕事面では厳しく「言い訳を言うより、できる方法を考えろ」と部下を叱咤し、怖れられる面もあったようです。
いずれにしても、時として強引ともいえるリーダーシップで北九州市を活性化させた功績はとても大きく、とくに中国大連市の薄熙来(はくきらい)市長とは懇意で、ともに肝胆相照らす仲でした。
あらためてご冥福をお祈りします。
さてその薄熙来さん、この方の情報を書いてみたいと思います。
結論から言えば、薄熙来さんは軟禁状態にあるとはいえまだ、生きています。
私にとって飛ぶ鳥落とす勢いのあった時代の薄熙来さんは、遠くから垣間見るまぶしい存在でしたが、彼の有力部下7人衆の一人、Wさんと懇意になった私は、遼寧省大連市を訪れた際に会食を重ね、彼からこんなエピソードを聞きました。
Wさん自らが運転するBMWにいろんな装備が付いていたのです。
とくにサイレンは凄かった。
なぜなのか?
酒もたばこもやらない薄熙来さんは全身全霊仕事一筋。
深夜でも早朝でもアイディアを思いつくと幹部を即招集。
直ちに会議を開き命令を課すのでした。
そのため招集をうけた部下たちはフルスピードで本庁へ駆け付けるため、信号無視や速度違反は特例でOK。
そのために赤色灯をまわしサイレンを鳴らすのだとか。
仕事一筋のこの姿勢が“北の香港”といわれた大連市の発展を促しました。
そんな大連市には、北九州のTOTOや安川電機や岡野バルブをはじめ日本各地から大企業が続々と進出しました。
ある時、薄熙来さんは進出した日本企業のトップたちと、取引をしていたりこれから取引を望む中国企業のトップたちを一堂に集めてこう言い放ちました。
「日本企業の友人のみなさん、私が証人です。いまここで大連や中国に言いたいこと、やってほしいことを忌憚なく要望してほしい。全責任は私がとります。」
上目遣いで遠慮がちながら恐る恐る中国側への要望を語る日本企業のトップたちでしたが、
「わかりました。すべて日本側のご要望通りにします。できないという中国側の企業は問答無用でカットします」。
それから毎月、両サイドから報告書を出させ、未達の中国企業は即座にカットした。
恐るべきワンマンですが、これが躍進する中国のトップリーダーだったのです。②
ここで薄熙来さんの歴史をおさらいしてみましょう。
これからは薄さんとよびます。
薄さんは、国務院副総理などを務めた薄一波を父に持ち、いわゆる太子党に属する、保守派の旗手として大連市長から第17期党中央政治局委員兼重慶市党委員会書記を務めましたが、結論から言うと汚職・スキャンダルの摘発により彼は失脚しました。
薄さんは1977年、北京大学歴史系世界史専攻に入学、その後ハーバート大学に留学したエリート。
1993年3月、前述のように大連市長に就任。類まれなる剛腕でとくに悪化した環境政策に力を注ぐ一方、日本企業など外資を積極的に呼び込んで地元経済の発展に力を尽くしました。
その後遼寧省長を経て党中央委員に選出され2004年には経済・貿易を管掌する商務部長(大臣)に就任しました。
2007年その能力が認められ重慶市党委員会書記に任命されました。
薄さんが赴任した重慶市は、1997年に「西部大開発の拠点」とするため4番目の直轄市に格上げされた人口3200万人の大都市でした。
薄さんは積極的な外資導入によって年16%を超える超高度経済成長をつくり上げる一方で、低所得者向けの住宅を建造して農村の居住環境を整え、都市と農地が混在する重慶市の特性を生かして超発展に導き、重慶の庶民に経済発展の恩恵を実感させました。
また重慶での政治実績をもって、薄さんは「共同富裕」のスローガンを掲げ格差是正や平等・公平をアピールし、民衆の熱い支持をひきつけました。
まるで一時期の毛沢東のように。
薄さんが中国大衆から大喝采を浴びたことも、また過去に例をみない輝かしい事実でした。
ところが2011年薄さん一族の不正蓄財など、薄さんを巡るスキャンダルが、突如メディアで報道されるようになりました。
党中央は薄さんに重大な規律違反があったために中央政治局委員・中央委員の職務を停止し、党中央規律検査委員会に審査をゆだねたことを公表しました。
同年9月28日、党中央は中央規律検査委員会の調査結果を受け、薄さんを党から除名して公職追放するとともに、刑事訴追することを決定しました。
10月26日、全人代常務委員会は薄さんの代表資格の取り消しを決定。
これにより、薄さんは全ての公職から追放されたのです。
2013年、薄さんが、横領罪、職権乱用罪で起訴されたことが発表されました。
収監された薄さんに対して裁判所は無期懲役の判決を言い渡しすぐさま刑が確定して投獄の身となったのです。
薄熙来という稀代の大政治家は消えましたが人々の心の隅に記憶として残りました。
2017年、薄さんが肝臓がんになったことが公表され、その後、薄さんは死んだと聞きました。
ところが2024年12月、まだ薄熙来は生きているという確かな情報がありました。
いまだ軟禁中ではあるが、彼は大連で生きているという。
今年で77歳。
もし薄熙来さんが今でも中国中央政権の中枢にいたら、中国の景色はどう変わっていただろうと考えます。
2026年1月1日
お健やかに新年をお迎えのことと拝察いたします。
今年は午年。
馬は本来、常に前進する動物であり、後ろを振り返らずに前へと進むその姿は、夢に向かって突き進む人の象徴でもあるといわれています。
あやかりたいですね。
ところで年末、悲しいニュースと、興味ある情報がありました。
悲しいのは、北九州市長を5期20年務めた末吉興一さんが12月14日、肺炎のため死去されたこと。
91歳でした。
末吉さんは東大卒業後、1958年に建設省(現国土交通省)に入省。
国土庁土地局長などを経て、87年の北九州市長選で初当選しました。
製鉄業の不振による「鉄冷え」で沈む街の再生を強力なリーダーシップでけん引し、
”北九州ルネッサンス構想”を市民に浸透させました。
24時間離着陸が可能な海上立地の北九州空港や、新産業の創出と地域産業の高度化を目指す北九州学術研究都市などを整備。
門司港周辺に残る古い町並みを活用し「門司港レトロ地区」として知られる人気観光地にも成長させました。
またJR小倉駅北口に整備した国際総合流通センター「アジア太平洋インポートマート」を開設。
2007年の市長退任後は内閣官房参与を務めました。
何度か末吉さんとお会いしたことがありましたが、文化や芸術に対しても造詣が深く、「中国の二胡はいいね」と目を細める、とても優しい方だったという印象があります。
ただ仕事面では厳しく「言い訳を言うより、できる方法を考えろ」と部下を叱咤し、怖れられる面もあったようです。
いずれにしても、時として強引ともいえるリーダーシップで北九州市を活性化させた功績はとても大きく、とくに中国大連市の薄熙来(はくきらい)市長とは懇意で、ともに肝胆相照らす仲でした。
あらためてご冥福をお祈りします。
さてその薄熙来さん、この方の情報を書いてみたいと思います。
結論から言えば、薄熙来さんは軟禁状態にあるとはいえまだ、生きています。
私にとって飛ぶ鳥落とす勢いのあった時代の薄熙来さんは、遠くから垣間見るまぶしい存在でしたが、彼の有力部下7人衆の一人、Wさんと懇意になった私は、遼寧省大連市を訪れた際に会食を重ね、彼からこんなエピソードを聞きました。
Wさん自らが運転するBMWにいろんな装備が付いていたのです。
とくにサイレンは凄かった。
なぜなのか?
酒もたばこもやらない薄熙来さんは全身全霊仕事一筋。
深夜でも早朝でもアイディアを思いつくと幹部を即招集。
直ちに会議を開き命令を課すのでした。
そのため招集をうけた部下たちはフルスピードで本庁へ駆け付けるため、信号無視や速度違反は特例でOK。
そのために赤色灯をまわしサイレンを鳴らすのだとか。
仕事一筋のこの姿勢が“北の香港”といわれた大連市の発展を促しました。
そんな大連市には、北九州のTOTOや安川電機や岡野バルブをはじめ日本各地から大企業が続々と進出しました。
ある時、薄熙来さんは進出した日本企業のトップたちと、取引をしていたりこれから取引を望む中国企業のトップたちを一堂に集めてこう言い放ちました。
「日本企業の友人のみなさん、私が証人です。いまここで大連や中国に言いたいこと、やってほしいことを忌憚なく要望してほしい。全責任は私がとります。」
上目遣いで遠慮がちながら恐る恐る中国側への要望を語る日本企業のトップたちでしたが、
「わかりました。すべて日本側のご要望通りにします。できないという中国側の企業は問答無用でカットします」。
それから毎月、両サイドから報告書を出させ、未達の中国企業は即座にカットした。
恐るべきワンマンですが、これが躍進する中国のトップリーダーだったのです。②
ここで薄熙来さんの歴史をおさらいしてみましょう。
これからは薄さんとよびます。
薄さんは、国務院副総理などを務めた薄一波を父に持ち、いわゆる太子党に属する、保守派の旗手として大連市長から第17期党中央政治局委員兼重慶市党委員会書記を務めましたが、結論から言うと汚職・スキャンダルの摘発により彼は失脚しました。
薄さんは1977年、北京大学歴史系世界史専攻に入学、その後ハーバート大学に留学したエリート。
1993年3月、前述のように大連市長に就任。類まれなる剛腕でとくに悪化した環境政策に力を注ぐ一方、日本企業など外資を積極的に呼び込んで地元経済の発展に力を尽くしました。
その後遼寧省長を経て党中央委員に選出され2004年には経済・貿易を管掌する商務部長(大臣)に就任しました。
2007年その能力が認められ重慶市党委員会書記に任命されました。
薄さんが赴任した重慶市は、1997年に「西部大開発の拠点」とするため4番目の直轄市に格上げされた人口3200万人の大都市でした。
薄さんは積極的な外資導入によって年16%を超える超高度経済成長をつくり上げる一方で、低所得者向けの住宅を建造して農村の居住環境を整え、都市と農地が混在する重慶市の特性を生かして超発展に導き、重慶の庶民に経済発展の恩恵を実感させました。
また重慶での政治実績をもって、薄さんは「共同富裕」のスローガンを掲げ格差是正や平等・公平をアピールし、民衆の熱い支持をひきつけました。
まるで一時期の毛沢東のように。
薄さんが中国大衆から大喝采を浴びたことも、また過去に例をみない輝かしい事実でした。
ところが2011年薄さん一族の不正蓄財など、薄さんを巡るスキャンダルが、突如メディアで報道されるようになりました。
党中央は薄さんに重大な規律違反があったために中央政治局委員・中央委員の職務を停止し、党中央規律検査委員会に審査をゆだねたことを公表しました。
同年9月28日、党中央は中央規律検査委員会の調査結果を受け、薄さんを党から除名して公職追放するとともに、刑事訴追することを決定しました。
10月26日、全人代常務委員会は薄さんの代表資格の取り消しを決定。
これにより、薄さんは全ての公職から追放されたのです。
2013年、薄さんが、横領罪、職権乱用罪で起訴されたことが発表されました。
収監された薄さんに対して裁判所は無期懲役の判決を言い渡しすぐさま刑が確定して投獄の身となったのです。
薄熙来という稀代の大政治家は消えましたが人々の心の隅に記憶として残りました。
2017年、薄さんが肝臓がんになったことが公表され、その後、薄さんは死んだと聞きました。
ところが2024年12月、まだ薄熙来は生きているという確かな情報がありました。
いまだ軟禁中ではあるが、彼は大連で生きているという。
今年で77歳。
もし薄熙来さんが今でも中国中央政権の中枢にいたら、中国の景色はどう変わっていただろうと考えます。


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