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象の耳~春季号~ 一蔵どんと吉之助さー 

2022年04月01日

2022年4月1日

仕事の関係で鹿児島を訪問することが多い。

おかげさまで友人も増えてきた。

鹿児島といえば西郷隆盛。

もちろん日本人の多くが慕う明治の偉人である。

その剛毅な人柄や存在感、細やかな人情ぶりを耳にするにつけ、西郷さんを輩出したカゴシマという土地、そのものに愛着を覚える。

もう一人の偉人は大久保利通。

鹿児島中央駅から天文館通りに走る電車道横の公園に颯爽と建つ銅像がすばらしい。

遠目にはアメリカのリンカーン大統領のようにも見える。

この二人は、西郷が1828年1月生まれ、大久保が1830年9月生まれ。

同郷の先輩後輩であり2歳違いの友人同士なのである。

この西郷を見出し、取り立てたのは名君・島津斉彬公。

弟の島津久光公は大久保を側近として引き上げた。

二人は激動の幕末を己の信じる道に従い猛進した。

ただ、西郷と大久保は人間的にとても対照的だった。

一言でいえば、西郷は情けに熱い人。

対して大久保は非情で冷酷だった。

ともに掲げた理想を実現するため両者はやがてぶつかることになる。

改革を進める大久保は、「廃藩置県」や「秩禄処分」を推し進めた。

秩禄処分とは、要するに維新後、全国にいる士族を解雇・整理すること、つまり首切りだ。

武士としての特権を奪われ、世の急激な変化についてゆけず、路頭に迷った士族たちが大久保を恨むのは当然。

大久保は幾多の困難を前にしてこれを断固やり遂げた。

その結果、士族の不満は頂点に達し、1878年5月、大久保は暗殺された。

享年47歳。

一方の西郷は、士族の不満解消と行く末のためか「征韓論」を主張した。

しかし受け入れられずすべての官職を辞し、鹿児島へ帰った。

各地で相次ぐ士族の反乱に心を痛めた西郷はついに「西南戦争」の頭目になることを決し挙兵。

1877年9月、城山で没した。享年49歳。

こうして武士の時代は完全に終わった。

明治維新は、冷酷非情で合理的な改革を推し進めた、一蔵どん(大久保利通)の存在がなければ成し遂げられなかった。

同時に、吉之助さー(西郷隆盛)の大局的な見地と、情け深い存在がなければ、また明治維新が成し遂げられなかったことは言うまでもない。

命を懸けて改革にまい進し新政府の中心人物として尽力、日本近代化の礎を築いた大久保に呼応するように、その改革を阻害するしかなかった士族や不満分子を引き連れて、死に場所を見つけてやり、西郷は死んだのだと思う。西郷の安らかな死に顔と、慟哭する大久保の悔悟の顔が浮かぶようだ。

筆者を含め多くの日本人は西郷隆盛に愛着を感じているが、それに比べ大久保利通の評価はその足元にも及ばない。

しかし、冷酷非情に国家運営した大久保と、情け深く、不満分子を引き連れ生涯を閉じた西郷は、晩年意見を異にしたようにみえて、実は表裏一体の存在であり、互いに、天から与えられた役割をはたしていたと考えることもできる。

吉之助さーがいたからこそ、一蔵どんは、容赦ない思い切った改革ができた。

一蔵どんの理想を貫徹させるため、吉之助さーは、不満分子を引き連れ、自ら命を捨てたのである。

いずれにしても明治維新はこの両者がいなければ為しえなかったことは事実であろう。

今年も仕事で鹿児島へ向かうことがある。

市内に入り、まずは城山に向かい目礼するのが恒例。

「かごんまに来もした。よろしくたのんもんで」。

(完)

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