~夏季号~ナディアの青い空…⑥
2018年07月02日
暑い夏にうだるような毎日。
しかし人間の感情がどうあれ、季節は確実に巡るって来るのだ。
そう思えば心なしか、初秋の風が吹くようになった気がする。
秋の公演のスケジュール決定やプログラム作成で、汗をかきながら慌ただしい日々を送る私は、しばらくナディアと音信不通になっていた。
いや正確に言うと以前、秋の公演予定を連絡した際に、
「9月末の公演には参加できるけど、そのあとはわからない。ごめんなさい。またご連絡させてください。」
という言葉を受けて、連絡待ちの状態だったのだ。
北部九州での公演では、私は福岡空港を集合場所にしている。
秋も彼岸を過ぎたある日、クリシュナさんやキムさんや李秀鳳さんと再会した。
もちろん予定では最後の出演となるかもしれないナディアもその場にいた。
いつものようにお互いが軽口の冗談を言い合いながら手配の車にのりこんだ。
今日の行く先は福岡空港から40分ほどで着く久留米市である。
ここの市民会館で公演は行われた。
会場に到着するなりそれぞれが公演準備にかかる。
手順は慣れたもので、だいたい李秀鳳から音合わせ、つまりリハーサルに入って ゆく。
なぜなら彼女はリハーサルを終わってから2時間ぐらいかけてメイクに入るのだ。
化粧したり、衣装に着替えてアクセサリーを選ぶ瞬間が、彼女にとって至福の時間だということだ。
彼女はこの仕事頑張って、資金をためて美容 室を経営したいという目的を持っている。
ゆくゆくは中国で美容室をチェーン展開したいという希望があるのだ。
リハーサルは順調に進み、いつも通り最後はナディアの順番になった。
彼女の場合は音合わせというより、照明の角度とか、舞台の感触をつかんでもらうことに主眼を置いている。
やがて無事にすべてのリハーサルが終わり、音響や 照明のスタッフも短い休憩に入った。
私も楽屋へ向かおうとすると、ナディアから声がかかった。
「あのう、よろしければ、この踊りを観ていただけますか?」
福岡空港で集合の際、ナディアとは短く他愛もない話をしただけで、あの事件以来公演日程の打ち合わせを除いて、彼女と会話することはなかった。
お互い背中に、何か重苦しい鉛を背負っているようで、また他人に相談するような 事柄でもなかったので、お互いが腹の底にやるせないマグマを溜めているようだったのだ。
「新しい踊りなの?いいよ。音源は?スタッフ、呼ぼうか?」
努めて明るいしぐさで私は了解した。
彼女は、
「いや、音楽はいいんです。私、歌いますから。それに、あなただけに踊り、観てほしいから。」
私は客席前方の3列目の席に腰を下ろした。
誰もいない舞台に上がり一呼吸おいて彼女はステップを踏み出した。
両手で何かをつかむようなしぐさで輪をつくり、厳しい瞳で前方をにらみ、首を左右に振った。
そして踊りに合わせて歌いだした。
全く聞いたことがない抑揚のあるウィグル語の歌だった。
大げさに言えば、鬼のようなというか、憑りつかれたような迫力を感じる舞踊だった。
やがて踊りが佳境に入ると、突然、ナディアの目から涙があふれてきた。
大粒の涙が頬を伝って落ちた。
それでも彼女は観客たった一人の私を見つめて 踊りを続けた。
歌もとぎれとぎれになっている。
「なぜ、泣いているのか。なぜ?」
その時、彼女の踊りを凝視している私の頭に瞬間、ぱっと光がさした。
「あっ、そうか、この踊りは…。ええっ、彼女はいつ覚えたんだろう?」
それはインドネシアのバリ舞踊だった。
「バリ舞踊の『戦士の舞い』ではないか。」
この舞踊は、戦場に赴く戦士の舞として、凛々しくもあるが、どことなく寂 しさも漂う踊りである。
目を見開き、脚を大股に開き、精神を集中したような踊りに観客は心惹かれる。
なぜ彼女がバリ舞踊を?それにこの歌は?そしてその涙は?
時間にして3分ほどで、歌が消え、踊りが終わった。
私は立ち上がって舞台に向かいながら拍手をして、恥ずかしそうに涙を拭き、荒い呼吸を整えるナディアに訊いた。
彼女が流した涙のことは一切無視した。
「この踊りはバリ舞踊だよね。どこで覚えたの?」
「あのムルバさんから習いました。まだ全然だめだけど、踊りたくなったんです。いつかあなたの前で踊ろうと決心していました。ごめんなさい。」
「ムルバさん」という懐かしい名前が出てきた。
彼女は3年ほど前にインドネシアに帰国したが、日本に居るときは、その素晴らしいバリ舞踊を私の公演で披露してくれていた。
性格が穏やかで優しく、お世話好きの女性であった。
「そうか、ムルバさんから教えてもらったんだね。ええっ、でもいつ?」
大きく深呼吸をしてから、ナディアは話した。
「ほら、えーと、前に鹿児島の公演で4日間続いたことがあったでしょう? あの時ホテルの部屋でムルバさんから教えてもらったんですよ。ムルバさんの 指音と鼻歌を音源に、何度も何度も練習したんですよ。」
「なるほど、そうか。それで歌は?ウィグル語だったよね。」
「あれは…。あれは、私のアドリブ。」
そうはにかんでナディアは、目じりの涙を親指で拭きやっと笑顔を見せた。
私は思い出した。
あの鹿児島公演のシリーズでは、ホテルは希望したルーム予約にならず、やむなくムルバとナディアをツインルームにしたのだった。
お互いに敬虔なイスラム教徒だし、ムルバは世話好きだし、問題ないだろうと 思ったのである。
案の定、二人はいつも一緒だったし、お互いに訛りの強い英語で楽しく会話していたことを思い出した。
「ウィグル人がバリ舞踊を踊るっていうのは面白いね。珍しいし、宣伝にもなるし、これから本格的にやるかい?」
明るく、冗談とも本気とも取れる軽い発言をした私に、
「いえ、それはないですよ。でもあなたに観てもらってよかったー。今日は本当によかった。」
と、ナディアがつぶやいた。
久留米市の公演は大成功だった。
お客様は珍しいアジア諸国の芸能に興味津々で楽しんでいただいた。
公演終了後は、九州自動車道を上り、また福岡空港に着いた。
チェックインを済ませたメンバーと空港内レストランで食事をとり、それぞれがさりげなく 帰途につくのである。
私たちの別れはいつもこうである。
再会を喜び合い、公演をしっかりこなして、別れはさりげなく…。
それはまたすぐに会えるからである。
とはいえ、この時は珍しくナディアが食事も一緒にせずに空港でメンバーと別れた。
何か急用があるとのことだったので、私も無理強いはしなかった。
「ナディアさん、またね。バイバイ!」
クリシュナさんやキムさんや李秀鳳さんの見送りに、ナディアは珍しく出演者と握手を交わし、ハグしながら、笑顔で手を振って、福岡空港の地下鉄乗り場に消えた。
食事を終えたメンバーを搭乗口に見送った私は、車を走らせ事務所のある北九州市へ向かった。
福岡インターチェンジから高速道路に入り真っ直ぐに北上する。
車の流れは順調だ。
私は今日の公演の仕事の反省点を探しながらハンドルを握っていた。
そして開演前にナディアが踊ったバリ舞踊の戦士の舞いを思い出していた。
まだまだバリの踊りとしてはムルバにかなうはずはないが、よく覚えたもんだ。
ナディアはムルバの踊りを観てたぶん感激したのだろう。
国に国境はあっても、文化や芸能に国境はないということだな、などと感じ入りながらも、ふとあることに思い至った。
「なぜ、ナディアは開演前にバリの戦士の舞いを踊ったのだろう。それもなぜ、メンバーやスタッフが休憩に入った頃合いを見図ったように、私にだけに見せたのだろう。そしてなぜ途中で泣き出したのだろう。私に何かメッセージを伝えたかったのかも…。やはり、そうか、そうなんだな。」
私は軽い胸騒ぎを覚えながら、あるかもしれない決断もしていた。 以下、次号 (M・F)
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