象の耳~秋季号~ 高倉 健
2021年10月01日
2021年10月1日
敬愛する映画スター高倉健が逝ってから7年。
彼はストイックな魂を持つ男優だった。
あらためて彼のストイックさを表したエピソードを振り返ってみたい。
彼のストイックさは、これまでの撮影現場でも多く発揮されている。
有名な話だが、彼は休憩中、絶対に椅子に座らなかった。
他の役者、スタッフが仕事をしているのに自分だけが休憩するのは申し訳ないというのが、その理由だ。
もちろん、周りの人に同じことを強要することは全くないのだが、
「健さんが座らないのに…」
と、他の役者も椅子に座って休憩することはなかった。
周囲からすると迷惑な話かもしれないが、だからこそ、高倉健の出演する映画は、現場がそれだけの緊張感を持って取り組むようになり、作品が「いい映画」になったのである。
当然のこと、高倉健と競演する役者は、「絶対に迷惑を掛けられない」と入念な準備で撮影に臨むから当然、NGも少なくクオリティの高い芝居になったのである。
高倉健の人柄を表すこんな有名なエピソードがある。
真冬の福井での撮影初日、高倉健は休みの日だったが、ロケ現場へ激励に現れた。
厳冬下だったので、出演者・スタッフは焚火にあたっていたが、高倉は焚火にあたろうとしない。
スタッフが「どうぞ焚火へ」と勧めたところ、高倉は
「自分はオフで勝手に来た身なので、自分が焚火にあたると皆さんに迷惑がかかりますので」
と答えた。
このため、スタッフだけでなく共演者も誰一人申し訳なくて焚火にあたれなかった。
やがて
「頼むからあたってください。健さんがあたらないと僕達もあたれないんです」
と泣きつかれ、
「じゃあ、あたらせていただきます」
となり、やっと皆で焚火にあたることができた。
またこんなエピソードもある。
撮影が終わり、役者、スタッフの泊まる旅館へ皆が到着し、食堂へ行くと、高倉健と監督の前だけ、皆とは違った豪華な料理が並んでいた。
これを見た高倉健は
「自分も皆さんと同じ料理にしてください」
と、かたくなに申し出た。
中国の映画監督・張芸謀は『単騎、千里を走る』の撮影の際、日本から招聘した彼が休憩の時に椅子に一切座らず、他のスタッフに遠慮して立ち続けていたことや、現地採用の中国人エキストラにまで丁寧に挨拶していたのを見て、
「こんな素晴らしい俳優は中国にはいない。」
と語った。
山田洋次監督は『幸福の黄色いハンカチ』の冒頭で、刑期を終え出所した直後の食堂。
ビールを深く味わうように飲み、ラーメンとカツ丼を実に美味しそうに食べるシーンを撮った。
1テイクで一発OKが出たこの場面、あまりにも見事だったので山田が問うと
「この撮影の為に2日間何も食べなかった。」
と言葉少なに語り、周りを唖然とさせた。
彼が椅子に座らないのも、焚き火にあたらないのも、豪華な食事を拒否するのも、全ての人と同等でありたいという謙虚さの表れ。
それを最も表しているのが彼の呼ばれ方だ。
高倉健は、80歳を超えても、皆から「健さん」と呼ばれた。
多くの名優が「先生」や「師匠」と呼ばれるようになる中、ファンはもちろんのこと、監督、AD、エキストラの俳優までが「健さん」と呼ぶ。
もちろん、親しみと尊敬の念を込めて。
高倉健は気配りの人でもあり、周りの人を大切にする人柄だった。
この場面テレビ中継で見た人も多いのではないか?
2000年、第23回日本アカデミー賞で4回目の主演男優賞を受賞したが、その会場でお笑い芸人のナイナイ岡村隆史と一緒になった。
岡村は主演した「無問題」で話題賞を受賞。
その表彰式で司会者から「将来はどんな役者になりたいですか」と質問を受けた。
岡村は意を決して「将来は健さんのような役者になりたい」と答えた。
もちろん本気ではなく、芸人らしいボケのつもりだった。
ところが場所が場所。
突っ込んでくれる相方はいないので会場全体が凍りつき、白けた雰囲気になりかけた。
その時会場のテーブル席に座っていた高倉健が立ち上がり、大きな拍手を岡村に届けたのです。
たった一人のスタンディングオベーション…
このハプニングで会場全てが救われた。
最も救われたのは岡村自身。
高倉健はこのとき、岡村に「いつか一緒に仕事をしよう」と声を掛けていたらしい。
岡村がうつ病で闘病した時も、励ましのメッセージと本を贈ったらしいし、そしてその後の主演映画「あなたへ」で岡村との競演を実現させ、約束を果たした。
その「あなたへ」の撮影現場で、岡村がマスコミのインタビューを受けていたとき、突然、高倉健が姿を表し、その場でジョークを入れた。
そうすることで岡村のインタビュー場面が際立つと共に、映像として流れる回数が多くなるという思いやりの計算が働いていたのである。
病気を克服してテレビ界に復帰した、岡村に対するエール(心遣い)だったのであろう。
いつでもどこでも気配りとやさしさあふれた高倉健のエピソードである。
名も無い裏方のスタッフ、無名の若手俳優にも変わらぬ態度で接したのが髙倉健という大スターだった。
高倉健が生涯一度だけ結婚した相手は江利チエミ。
ところが江利の身内の金銭的不手際で二人は離婚。
その後も独身を通した高倉健。
江利チエミの命日には、毎年墓参りを欠かさず、花を手向け、本名を記した線香を贈っていた。
高倉健は生前、
「どんなに愛し合っていても、別れなければならないことがある」
と寂しく語ったそうだ。
彼は自ら「俺について来い!」とはいわない。
しかし、その態度に惚れて誰もがついていきたいと願う。
やっぱり、誰が何と言おうと高倉健は最高のスターでありリーダーだった。
現場のモチベーションを引っ張り上げる役目を担っており、その根底には「自分がこの映画をリードするのだ」という強烈な覚悟と決意が存在していたのである。
7年経っても、惜しい男を亡くした無念さは変わらない。
(完)
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