~秋季号~ ナディアの青い空…⑦
2018年10月01日
10月に入り、私の仕事は佳境を迎えた。 スケジュールが立て込み、手配を確認するだけで1日が終わることもあった。
そんな中、ナディアからその後の連絡は全くなかったし、私も彼女を公演出演者としてエントリーしていなかった。
それは出演予定をあいまいにすることを許さない私の方針と、エントリーした出演者の組み合わせで作成する、公演進行の台本作りがそれを許さなかったからである。
何より、彼女は重い決断をしているのだろう。
だとすれば、私は彼女の決断を尊重してあげたいと思いつつも、またその決断を聞くのは辛いという思いでいっぱいだったのだ。
そして10月も下旬を迎え、そろそろ朝晩に北風を感じるようになったころ、ナディアからメールが入った。
文面は、
「あなたにご挨拶したいから、小倉へ行っていいですか。」
というものだった。
「とうとう、来たか!」
私は何ともいえない寂しさと、なぜか腹立つ思いと、何も力がない自分が情けなくて、思わず叫びたくなったが、それをこらえて受信メールに返信した。
「OK!いつでもいいよ。あなたが日時を指定して。」
さっそく翌日の午後、ナディアは、真っ青なブラウスと白いジャケットの装いで事務所に現れた。
長く艶のある黒髪もバッサリ切ってショートカットにしている。
いつもの彼女と違うイメージに私は戸惑ったが、東トルキスタンの国旗・キョック・バイラックをイメージさせる真っ青のブラウスと、短いヘアースタイルに、彼女の並々ならぬ決意を感じた。
彼女を応接間に案内して、私たちは精一杯の笑顔を作りながらも、お互いにぎこちない時候の挨拶を交わした。
ナディアが切り出した。
「これまで本当にお世話になりました。私は故国に帰ることにしました。」
やはり、そうかと、心でショックを受けながら、私は平然とした態度を示した。
予期していたとはいえ、寂しい思いの波がどっと打ち寄せてきたのを止めるためである。
「大学はどうするの?もう1年あるんじゃないの?」
「はい、大学は教授や関係の方に話して退学する手続きをとりました。お部屋も、残っている支払いをすべて前払いして、後の家財道具は近所の親切なお店の方に引き取っていただく手筈をしました。明後日、福岡空港から上海へ行き、そこから故国に帰ります。」
固い決心のナディアが目の前にいた。
「残念だけど、あなたがそう決めたんなら仕方ないね。体に気を付けて、頑張りなさいよ!」
私は、頑張りなさいよ!というフレーズに力を込めた。
その思いは通じたようで、彼女は私の顔をまっすぐに見つめて大きくうなずいた。
しばらく沈黙が続いた後に、彼女が、
「これプレゼントです。ぜひもらってください。」
と、小さな包みを差し出した。
開けてみると、それはホータンの玉でできた白色のブレスレットだった。
ウィグルのホータン地区は、玉の産地として有名で、中国ではこの玉は4大宝石のひとつとされている。
しかしこの頃は中国企業の採掘が激しすぎるのか、産出量が減って価格が上昇していると聞いたことがある。
(この玉だって、ウィグルのものなんですよ。)
とは、彼女は言わなかったが、こんなところにもウィグルと中国の軋轢があるんだろうと、私はとっさに思った。
「ホータンの玉でしょう?こんな高い物はもらえないよ。」
押し戻す私に、彼女は、
「お願いだからもらってください。そしてあなたの腕に巻いてもらえると嬉しいんです。ぜひ、もらってください。あなたのご恩に報いるにも、私にはこんなことしかできないんです。ぜひ、もらってください。」
押し問答が続いたが、私はありがたく頂戴することにした。
さっそく左手首に巻いてみる。
鈍い玉の光沢が美しい。
「きれいだな。ありがとう。それでは遠慮なくいただきますね。」
そういいながら私は立ち上がって、自分の机に向かって引き出しを開け、後方にあるキャビネットの下扉を開けた。
私はこんな日が来るかもと思い、事前に小倉城内にある八坂神社のお守りを各色5個買っていたのである。
もちろん赤い色は外していた。
八坂神社は『小倉祇園太鼓』で有名な地元小倉っ子の愛する神社である。
机の引き出しからそれを取り出して彼女の前へ差し出した。
「お札袋の色は違うけど、中身の願いは一緒だよ。ご両親やおばさん、そしてお兄さんとあなたの分があるから。ぜひ身に着けていてくださいな。」
「ありがとうございます。日本のお土産は喜びます。ましてお守りなんて…。」
続いてキャビネットから取り出した化粧箱をネディアの前に差し出した。
長崎県島原産の乾麺詰め合わせである。
乾麺は奈良時代に遣唐使が日本に持ち込んだもの。
それはシルクロード=麺のロードであり、ウィグルには「ラグメン」という、日本で言う「焼きそば」のようなポピュラーな麺料理がある。
はるか昔からウィグルと日本はシルクロードを伝わって麺の文化でつながっていたのである。
また江戸時代の初め、日本では島原の乱が起こった。
キリシタン弾圧や過酷な年貢に苦しむ島原と天草の農民が、16歳だった天草四郎時貞を指導者として蜂起。
約3万7千人が原城に立てこもり、幕府の制圧軍と戦った末にほとんどが殺害された。
宗教弾圧と圧政に苦しむ百姓一揆の悲惨な事件だった。
「天草の乱、知っています。」 みるみるうちにナディアの茶色の瞳から大粒の涙があふれた。
私はその涙に気が付かないようなそぶりで、応接間の窓の外に目をそらしながら、
「世の中にはどうしても我慢できない、理不尽なこともあるよ。とくにジェノサイドだな。これは私も絶対許せないよ。だからそれに抵抗する気持ちも充分にわかる。だけど、だけど、抵抗する手段だとしても短絡的に命を落としてはならない。死んだらいけないんだ。粘り強く、対話に継ぐ対話で、世界中の世論を動かすんだ。今はインターネットで世界中がつながっているから、愚かな武器は持たないでほしい。メールで、ブログで、ラインで、フェイスブックで、もちろん電話や手紙や映像で、ありとあらゆるツールで、世界中の良心を動かすんだ。どんなに自由と解放を求める大義があろうと、暴力はいけない。暴力は憎しみと復讐心の連鎖しか残さない愚かな選択だ。ナディア、いいかい、間違っても死んじゃいけないよ。生き抜けよ。」
私は自分が飛躍した発言をしていることに気が付きながら、これまでに鬱積したともいえる感情が勝り、そう言わざるを得なかった。
明後日、福岡空港を発てば、もうナディアと会うことがないかもしれない。
無力で無能な私がウィグルのレジスタンスになれるわけがない。
どんなに叫んでも中国のあの体制を転換させる力が、今の私個人にはない。
せめて、一連の流れが劇的に変わり、 ~お元気ですか?また日本に来ました~ そんな元気な彼女に会える一縷の望みを叶えるとしたら、ナディアが生きていることだ。
過酷な境遇でも生き抜いてほしいと、願ったのである。
以下、次号 (M・F)
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