象の耳 秋季号 友人Yさんの死
2023年10月01日
2023年10月1日
残暑厳しい8月末、東京在住の中国人の友人から電話があった。
「やはり6年前に死んだらしい。酒の呑みすぎが原因らしいよ」
「そうか…、残念だな」
亡くなった彼は同じく在日中国人のYさん、まだ享年は60歳にもなっていなかったはず。
小柄で人懐っこい笑顔ながら、商売に関しては厳しい目つきと才能を持った人物だった。
詳しいことは分らないが、彼は中国残留孤児のつながりで来日したのは間違いない。
確か黒竜江省と内モンゴルの境界にあるひなびた寒村の出身である。
名字からして彼が朝鮮族であることが分かった。
しかし彼の瞳は茶色。
ひょっとして白系ロシア人の血も交じっていたのだろうか?
学歴などはわからない。
子どものころからとてつもない苦労をしてきたはずだが彼は昔話を一切語らなかった。
ただ来日してからの体験をこう聞いたことがある。
「腹が減り、繁華街の渋谷をうろつきごみ箱をあさったり、物乞いをしたこともあるよ。必死だったよ、生きることは大変だぞとつくづく思った。でもこういう発見もした。初めて乗った飛行機。初めて来た日本。なんでもかんでも目が回るほど忙しい。夜間の日本語学校で必死に日本語を覚えたよ。その日本語を街で話してみる。笑われる。教えてもらう。また話す…。それと初対面の日本人にはとにかく笑顔で低姿勢に接することを覚えたね。そうすれば親切にしてくれるんだな。着る物も食べ物もいろいろ恵んでくれた」
確か20代前半で来日した彼は、縁あって東京の宝飾・アクセサリーの会社に就職した。
そこで貿易の仕事を習い、めきめきと力を発揮した。
ある時、会社が大学を卒業したエリートを雇いその人と折り合いが悪かったことを契機に彼はあっさり会社を辞めて独立した。
そのころ「中国物産展」は大盛況だった。
婦人服やアクセサリーを主力に、彼はデパート催事に乗り出した。
そして私は彼と知り合ったのである。
こんなことをよく憶えている。
休憩でお茶をする私たちの前に、彼が雇ったマネキンさんが呼び出しに来た。
「00さんというお客様がお見えです。お会いしたいそうです」
「00さん?ああ、会わなくていいよ」
「せっかく訪ねてきたお客だから、早く行ったら?」
「いや、あのお客はもう買わない。ボクと話がしただけなんだ。それにもう腹いっぱい買わせたからね」
またマネキンさんが来た。
「00さんというお客様がお見えです。Yさんはいないのとお探しです」
「00さん?いくつぐらいの人?太った人?ああ、それなら、そうだな、今から30分したら行く。それまで引き留めて」
「すぐ行かなくていいの?」」
「大丈夫、30分待たせたら少しイライラする。そこで会って謝ったら必ず買うから」
「へー、そんなもんかい」
「そんなもんだよ。日本のお客はみんな自分が一番だと思っている。同じ対応だとおかしいだろ?3万円のお客と30万円のお客は明らかに違うんだよ」
「きみ、そりゃーいいすぎだろ。お客はみな同じ。大切にしなければ…」
「お前さん、甘いね。お客の買う気、つまり他の客相手に負けん気を起こさせてモノを買わせるのが商売だよ」
「なるほどねー。でもそうかな?」
もう一度マネキンさんが来た。
「00さんというお客様がお見えです。お会いしたいといってますよ」
「すぐ行く。悪い、また後で。支払い頼むな」
彼は脱兎のごとく飛び出し売場に戻った。
こんな逸話も思い出す。
彼は中国少数民族の衣装に目をつけた、雲南省の彜族の村を訪ねた時のこと。
彜族の言葉を話す通訳と麓まで車で行き、出迎えた案内人と延々と歩いて部落にたどり着いた。
部落の長老に挨拶し歓迎されつつ、Yさんは民族衣装の買い付けを行った。
タフな交渉だったが、選んだ民族衣装を現金で買いたたいたのである。
彼の呈示は総額で2万元。
先方は12万元。
暗礁に乗り上げた交渉だったが、たまたま持参した懐中電灯に興味を示した相手に、
「電池で点く日本製の懐中電灯、点いたり、消えたり。手元でできるんだよ」
「珍しい。みたことない。いくらするんだ」
「日本製だから10万元はする。高いけど、すごいでしょう。誰も持ってないよ」
交渉は、懐中電灯を点けたり、消したりしながら、しぶしぶ2万元+懐中電灯で成立した。
やがて、相手の手配したヤク(水牛)に品物を乗せ下山、と思ったが、外は真っ暗、暗黒の世界である。
どうして山を下りようか、クマやオカミがうろうろいるし、足元には毒蛇もいる。
途方に暮れ、闇夜の恐怖がよぎった彼に先方が言ったという。
「懐中電灯の明かりと道案内の若者をつけよう。荷物の運賃と合わせ10万元でどうだ」
うまく彜族の長老をだましたつもりが、結局だまされた。
彜族は商売上手だよと笑った。
もっとも買い付けた少数民族衣装は、その後東京のデパートで考えられない値札をつけたにも関わらず、すべて完売した。
「日本のご婦人方のパワーは凄いよ。あんなものまで買うんだから」①
そういえばこんな相談もあった。
懇意になった大手M不動産の役員からの提案だという。
相模原のショッピングモールに空きが出た。
2年契約だが破格の条件だし入居しないかという勧誘だった。
契約を含め、細かい日本語がわからないし、現場をみてくれとの相談だった。
予定を調整し上京して相模原でみた物件は想像以上に立派で広いものだった。
2日かけてあれこれと確かめた私は、結論として、やめたほうがいいといった。
「どうして?大手の不動産会社だし、あの人親切だし、信用できるよ。条件もいいし…」
「大手だから、好条件だから、信用できないんだよ。大手の人間と私たちでは扱う金の桁が違う。わかるかい?蟹は甲羅に似せて穴を掘るというじゃないか、今の私たちにはあの売場は広すぎるし維持するのが大変だ。」
「頑張ればいい、チャンスだと思う。紹介された銀行も、なんぼでも金出すと云ったぜ」
だんだんと険悪になりそうな会話を打ち切り、
「もう、攻めはそれぐらいにして守りに入ったら?」
「日本は頑張れば、頑張るほどチャンスをくれる国。一度きりの人生だから、あきらめるのはもったいない。M不動産のあの人だってボクを応援してくれるし…」
甘いなと内心思いつつ、役に立てなかった詫びを握手に込めて、私は彼と別れた。
そんな彼とは顔が合えばよく酒呑んだものである。
彼の酒の飲み方はこうだ。
まるで中国やアメリカの強い酒を一気に飲むように、グラスに注いだ酒を一気に呑み干す。
日本酒でも焼酎でもウイスキーでも氷や水で割ったりしないのである。
一度聞いたことがある。
「そんな呑み方は良くないよ。酒は、ちびり、ちびり、楽しむほうがいいよ」
「そんな、ちびり、ちびりの暇はボクにはないよ。早く酔わなきゃ酒にわるいじゃん」
彼は子煩悩だったし、事実、渋谷のデパートの宣伝ポスターに、中国少数民族の衣装を着た家族写真が載り、地下鉄の中吊りで話題になったこともあった。
デパート催事で儲けた彼は、その後横浜中華街や東京都内、千葉、茨城にも中華料理店を多店舗展開した。
その冷徹なまでの経営手腕と人懐っこい笑顔で顧客も増えた。
当時。
上野に在った彼の店で宴会したことがある。
食事のコースは一流、酒もじゃんじゃん。
お勘定してに、代金はいらないという。
「そりゃダメだ。いくら友だちでもちゃんと代金は取れよ!」
「ボクの店に来てくれただけで嬉しい。ボクの顔をつぶさないで。ボクの気持ちに文句言うな!」
そんな剛毅な面を見せる男でもあった。
5人の子どもに囲まれた彼は
「店をすべて子どもたち一人ひとりに任せ、親戚にも与える。老後はのんびりするよ」
「まだ老け込むのは早い、もっともっと楽しくやろうぜ」
しばらく無沙汰が続き、時は流れて8年前かな、彼から突然電話があった。
「今阿蘇に居る。頼まれて催事に来たんだ。明日帰るんだが、帰り方がわからない」
「なに、阿蘇?熊本?わかった。今からすぐ車で迎えに行くよ。待っていて」
小倉から駆けつけ再会した私は運転を社員に任せ、熊本空港までの道中、持参の酒を呑みかわした。
「店は、商売は順調?」
「ああ、でもいろいろ大変だよ」
「だろうな、都会は。でも頑張るしかないよ」
「ああ、お互いに、ね。」
今考えれば乾杯のしぐさが元気なかったかもしれない。
その後彼の携帯電話はつながらなくなってしまった。
訊くところによると、奥さんと離婚し、子どもたちとも別れ、店も手放し、台湾出身の女性と横浜で暮らしているらしい。
体がボロボロとも聞いた。
折にふれ、彼の近況を気にしていたところに、6年前に彼が死んだという連絡があったのである。
朝から酒を呑み続け、肝臓はおろか、脳までイカれてしまったらしい。
彼に何があったのか?
何が彼を追い込んだのか?
今となっては知る由もない。
ただ彼は、中国残留孤児のつながりとして、海を渡り、この祖国で、頑張り、成功し、躓き、身を滅ぼした一人の男であった。
想像を絶する苦しみと悲しみが日本に来た彼の心の底にへばりついていたのであろう。
そう思うと彼の人生もまた、先の日中戦争に翻弄された中国残留婦人や孤児、並びに付帯する多くの犠牲者の中の一つとみることもできる。
だがもし彼が残留孤児のつながりもなく、日本に来ることがなかったら、半年は氷に閉ざされるという極北の大地で、彼はどんな人生を送っていただろうか。
ネオンきらめく都会を観ることもなく、朝起きてなにがしかの仕事をし、なにがしかの労賃を得て、夜は酒を呑み干し、そのまま眠りにつく。
儲けたり、損したり、騙したり、騙されたりは関係ない。
実はその生活こそが理想だったのかもしれない。
「よっ、久しぶり、一杯やるか?」
「いいねー、行こう!」
今となっては彼、Yさんの冥福を祈るのみである。
(完)
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