~春季号~ ナディアの青い空①
2017年04月01日
弊社の仕事に、「アジアの風公演」や「アジアン芸術夢公演」があり、「アジアンフェスタ」も「シルクロードフェア」ある。
なぜ弊社がアジアにこだわるのか?
それはこの言葉、‟Asia is One„=アジアは一つが、すべてを代弁してくれるのだ。
かの岡倉天心の言葉である。
天心はいう。
「日本の文化とその歴史は、西アジアから東アジアへかけての『アジア全域の文化遺産』を、その奥深くに受けとめ、それを醸成するように成立している。その意味で、日本文化のありかたのうちに、アジアは混然として大きな『一つ』を形成しているのだ。」
つまり岡倉天心は、近代日本がとかく西洋対日本という図式で考えられるのとは異なり、アジア総体のありかたの中で、日本を捉えようとしていたのである。
この考え方に私たちは感銘する。
だから今でも頑なに、「アジア」にこだわるのである。
さてそんな「アジア」に、微力ながらこだわって30年余。
いろいろなことがあり、いろいろなことを学習した。
いろいろな思い出もたくさんある。
この春季号から、しばらくあの‟彼女”のことを書いてみたいと思う。
たどればいろいろな思い出が交錯する。
時には話が脱線し、時には支離滅裂になるかもしれないし、もちろん内容はフィクションに満ちているから、いったいこの話はいつまで続くのだろうか、
筆者にも皆目見当がつかないが、まずは書き出してみよう。
題名は「ナディアの青い空」とした。
13年前。この話は2004年に端を発する。
中国西方に新疆ウィグル自治区がある。
ここは中央アジアの入り口であり、わずか68年前までは東トルキスタン共和国とよばれていた。
いまこの地は、ウィグル族のほか、カザフ族、キルギス族、タジク族、ウズベク族、モンゴル族、そして漢族などさまざまな民族が居住している多民族地域である。
多民族地域ということは、そこに住む人々の言語も風習も異なり、それぞれの文化や伝統が色濃く残り、それを大切に守り続ける土地柄が根強くあるということである。
この新疆ウィグル自治区は直線距離で日本から約5,000キロm。
面積の166万キロ㎡は日本の約4.5倍。
ただし、面積の約25%は荒涼とした砂漠が占めており、総人口は約1,900万人で、うち約1,200万人はウィグル族など、漢族以外の民族で構成されている。
逆に言えば700万人を超える漢族が、省都のウルムチを中心に、カシュガル、トルファン、ホータンなどの都市に入植しているということだ。
青い空をもつこの地の主な宗教はイスラム…、だというのはよく聞く話である。
日本と中国の時差は1時間だが、中国は広いから、この地は日本より3時間ぐらいの時差があるのではないだろうか。
そんなウィグルから来た女性と縁あって私は知り合った。
この話の主人公である‟彼女”の名前はナディア。
新疆ウィグル自治区ウルムチ出身。
ウィグル人特有の抜けるような白い肌と黒い髪と茶色の大きな瞳の当時25歳の女性である。
このナディアと私の関わり合いから、この話を始めよう。
2004年に彼女は国費外国人留学生制度を活用して九州へ来た。
もちろん派遣国は中国である。
初来日し福岡市東区のアパートに居を構えた彼女は、不慣れな日本生活に溶け込もうと、大きな茶色の瞳をクリクリさせながら、学業にアルバイトに精を出していたらしい。
ところでこの国費留学生制度について、中国では不満がたまっていると承知している。
中国は56の民族で構成する、やはり多民族国家。
圧倒的に人口が 多い漢族の留学生が多いかといえば、数では圧倒的に漢族が多いのだが、パーセンテージでみると、少数民族の留学生の方が多くなるのだ。
「同じ中国人なのに少数民族は優遇されている。私たちの競争率は高くて不公平だ。」
留学を希望する漢族の若者たちには、中国政府のとる海外留学生制度の判定には不満だらけだ。
中国政府は漢族以外の55の少数民族を広く留学させることにより、ひるがえって中国への感謝と忠誠を求めているのかもしれない。
もっとも、「この点だけは中国に感謝する。」と、いうナディアだったが…。
私の仕事は中国をはじめ、アジア諸国の芸能や生活を日本で紹介しながら、互いの文化や芸術を正しく理解し、それを尊重し、共生を図りながら交流していくということをコンセプトにしている。
いわば民間の文化交流促進が、私の生業だ。 ウィグルの芸能、とくに舞踊に関しては、もともと私は当時、もう一人のウィグル族女性・リーアと出会っており、すでに仕事でウィグル舞踊を採りいれていた。
リーアは栗色の髪に青い瞳をもち、同じくウィグル人特有の抜けるような白い肌の女性である。
やや恥ずかしがり屋のところはあったが、とてもまじめで何事にも一生懸命頑張る女性だった。
ところでウィグルの子どもは生まれて立つようになると踊りだすといわれるぐらい踊り好きである。
その踊りは独特で古代シルクロードの要衝だった彼の地にふさわしく、ヨーロッパ、中東系の動きあり、中国的な、あるいはロシア的な動きもあり、とても変化にとんだ美しい舞踊である。
そのリーアが来日前から婚約していた米国在住のウィグル人男性と結婚することになり渡米することとなった。
リーアの旅立ちが迫ったころ、彼女からぜひ紹介したいと連絡があり、そこで出会ったのがナディアだった。
同じく彼女はウィグル舞踊の名手だという。
ナディア自身から経歴を聞き、彼女の真っ直ぐな性格や十分な容姿や舞踊に対する高い識見と完成度を確かめて、私は彼女と契約することにした。
ナディアはさっそく秋から私の仕事に合流し、予想以上のダイナミックかつ可憐なウィグル舞踊を魅せた。
ウィグルの食習慣、社会風俗、宗教、歴史、民族性など多岐にわたるが、その一つに姓名についての慣習がある。
ウィグル族の姓名は、一般に自分の父親の本名の前に名をつける。たとえば、父親の姓名が“ムハンドラ・ナルギス” で、娘の名が“ナディア”であれば、“ナディア・ムハンドラ”とする。
娘が結婚したら、父親の名を外す。
また姓に夫の名をつけることもない。
ただ“ナディア”となる。
しかし男性は延々と 一族の姓が続くことになる。
またイスラム教の影響からか、ウイグル族の女性の地位は低くて従属的な立場にあり、この地にも男女差別の風習があるのだ。
日本でもそうだ。由緒正しき家柄を誇る家系などに代々00という名前を継承する風習がある。
その裏には先祖を敬う精神もあるが、実際には女性は子供を産むためと考える習俗としての女性差別の歴史があるのは事実らしい。
さてそのナディアは普段はいたって物静か。
カタコトの日本語と訛りの強い英語、何より中国語は喋れるのだが、めったに話さない。
もちろん私の周りにウィグル語をしゃべれる人間がいないこともあり、彼女の公用語は笑顔だねと皆で冷やかしたほどだ。
こうして2005年は瞬く間に過ぎた。
それからまる3年が過ぎた。
2008年冬。
街中がクリスマスソングと歳末商戦で活気づく中、一通りの公演仕事が終わって、私はナディアと長く語り合える時間が持てた。
福岡市の西鉄天神福岡駅で落ち合った私たちは雑踏の中をかきわけ近くにあった小さな喫茶店に入った。
私はホットコーヒーを、彼女はホットココアを注文した。
「お疲れさま。今年の仕事もようやく終わったね。」
という私に、
「お世話になりました。ありがとうございます。」
と応えるナディア。
折からの年末ジャンボ宝くじの発売を話題に、
「宝くじ買った?」
「買いましたよ。5枚。」
「へえー5枚買ったんだ。」
「お父さんに1枚、お母さんに1枚、お兄さんに1枚、おばさんに1名、お世話になった隣のおばさんに1枚。」
「えっ、自分の分は?」
「私はいいんです。家族の誰かが当たると嬉しいし、それに日本の宝くじは記念のお土産になるから。」
「でも宝くじは無記名だから,どれがお父さんの宝くじか、どれがお母さん の宝くじかわからないだろう?」
「わかるんですよ。買った私が分かるんです。だって番号がそれぞれ違うでしょう?」
こんな他愛もない話はやがて核心に進んでゆく。
彼女は国費留学生として九州の某国立大学へ通う留学生で、日本の児童教育を研究しているのである。
来日前はウルムチで小学校の教師をしていたのだ。
「来春3月で国費留学生の資格が終了するけど、もう2年は日本に居たいんです。もう少し日本語もうまくなりたいし、勉強もしたいし。」
「それは私費で続けるってこと?」
「そうですね。身元引き受けをしてくださる日本の教授もいらっしゃるし、もう2年頑張りたいんです。」
「わかった。じゃあこの仕事まだ続けるんだね。」
「ハイ。ぜひよろしくお願いいたします。」
本来海外からくる留学生の就業、つまりアルバイトには法律的に制限があり、したがって多くの留学生は物価高の日本での生活に苦労している。
ナディアのような特殊技能を持っている人間以外は、学業よりも生活、つまり金を稼ぐことに一生懸命なのである。
それから話題はリーアの件になり、在米のリーアに子どもができたこと。
米国の永住権が取れたこと。
とても幸せであることなどを聞き、
「よかったね。よかった、よかった。」
と私たちは喜んだ。
「ナディアもいい人見つけて結婚しなきゃね。ウィグル人でなきゃダメ?日本人でよかったら紹介してやろうか?」
と、軽口をたたく私に、
「中国人以外なら…。やはりウィグル人がいいな。」
と、ナディアが真剣な眼差しで答えた。
「中国人以外って、中国人でもいい人はいっぱいいるよ。それに日本人だって、韓国人だって、結婚したらウィグルで暮らし、ウィグルに馴染む方法はあるじゃないか。」
無頓着な口調でたたみかける私に、
「そうは、うまくいかないんだなあ。」
と、投げやりな口調で彼女は答えた。
その言葉は、単に手続き上の問題ではない、何か複雑な様相をはらんでいた…。
「ココア。美味しい。」
と両手でカップを持ち上げ、彼女は微笑んだ。
二人きりで対面し、やや上目使いの茶色の大きな瞳に見つめられるとなぜか心がざわつく自分がいる。
仕事ではあまり意識しないのに。
改めてエキゾチックな顔立ちだなと思った。
そして時おり彼女が垣間見せる、憂いを秘めたような、何かを辛抱しているような表情で、一点を見つめているときなどに感じる、けだるい美しさみたいなものを再確認した。
それは一途に何かを思いつめている表情といってよい。
まるで開演し、本番を直前に控えた踊り子の表情でもあった。
「ウィグルと中国の関係、どう思います?」
「民族問題でもめているとは聞いているけれど、詳しいことはわからないね。」
「そうでしょうね。多くの日本人は無関心ですものね。」
(やはりそうか。彼女は何かを抱えているな。)
瞬時に私はそう思った。
私の公演の仕事とは中国やアジア諸国の文化芸術を披露しながら、鑑賞してくださる方々に中国やアジア諸国との親善交流と文化理解を促すものだから、公演では中国人や韓国人、モンゴル人やネパール人など、これまで私が知遇を得て、信頼するアーティストたちをそれぞれ編成して開催しているのだ。
ナディアの場合は中国人枠というか、中国の少数民族ウィグル舞踊として参加してもらっている。
楽しい公演が終われば楽しい食事、つまり”打ち上げ”的な懇親会を出演者 やスタッフと行うことが多い。
その際にも気づいたことがある。
彼女は必要以外の会話を他の出演者としないのだ。
というより、他の出演者の発言を注意深く聞いているようにも見えるのである。
だからなのかナディアは控えめなおとなしい女性という印象が定着している。
それにイスラム教を信じることから豚肉を食べない。
お酒も飲まない。
つまりイスラムの教えが定める合法的な食材しか食べないのだ。
このごろは“ハラール”という言葉も耳にするようになったが、敬虔なイスラム教徒にとっては異国の食事は辛いものだろう。
いつごろからか、食事の際に彼女は私の左隣りに座ることが多くなった。
それは他の出演者がメニューから好きな食べ物を銘々に注文しても、私とナディアはいつも同じものを、それも私がすべて注文するからだ。
これはリーアの時もそうであった。
豚肉はおろか、ラードやショートニングに至るまで、イスラムの教えに反するものは私が充分注意し、時には調理場へ足を運んでコックさんにお願いすることもあった。
「すみません。この炒め物の油はサラダ油でお願いします。ええ、たとえ美味くなくても結構です。ラードは決して使わないでください。」
ナディアはいつも私のそばにいると冷やかす向きもあったが、実態はこうだったのである。
「ウィグルと中国の関係、どう思います?」
唐突に投げかけられた数秒の重い沈黙の間、私はそんなことを思い出していた。
「無関心ではないが、もめ事にはどちらにも言い分があるから、よく聞いてみないとね。いずれにしても戦争はダメだよ。」
「戦争を起こしてはいけません。でも戦争をしなければ収まらないぐらいに 虐げられると、どんな人間だって立ち上がるでしょう!?」
私はびっくりした。
あの物静かでおとなしいナディアから、こんな烈しい言葉が出るなんて想像できなかった。
「そりゃあそうだが、戦争を回避する知恵も人間はもっているよ。」
「そうですね。知恵は出さなければいけませんね。知恵を出して仲良くしな ければいけませんよね。」
彼女は自分に言い聞かせるようにつぶやいた。
「どうしたの?何かあったの?」
問い質す私に、
「いえ…、これからあるんです。あるかもしれません。あってほしくないんですけど。でも私、頑張ります。ごめんなさい。」
彼女はわけのわからない言葉でその場を取り繕った。
私はそれ以上この話題を追及することを避けた。
喫茶店を後にした私たちは西鉄天神福岡駅まで歩いた。
私はナディアが言った言葉が妙に気がかりだったが、これ以上は議論になるし、議論は白熱すると あらぬ方向へ向かうかもしれないし、そんなナディアは見たくないという思いが強く、西鉄天神福岡駅のエレベーター前まで歩いて来て彼女を待たせた。
そして小走りで近くのデパートへ行き、目に入った“赤いマフラー”を買った。
この赤いマフラーが後に後悔を生むことになる。
「お待たせ。これクリスマスプレゼント。」
「えっ、ありがとう。高いんでしょう?これ。いいんですか?」
「気に入るといいけど。また来年も仕事よろしくお願いしますね。」
「ありがとうございます。私、頑張ります。」
と彼女は微笑んだ。
「それじゃ、気を付けて。」
「あなたも。あっ、先ほどはすみませんでした。変なこと言って。」
「メー・クワン・シー!」
おどけた中国語で、私が気にしないでと言ったら、ナディアは一瞬私を睨みつけた表情を見せ、次に笑顔で手を振った。
明けて2009年1月中旬。
正月気分も抜け、世の中が平常に戻りだしたころ、ナディアから電話があった。
「ご相談したいことがあります。お会いできますか?」
「いいよ。その日だったら福岡へ行く用事があるから。午後でよければ貴方の都合に合わせますよ。そうだなあ、先月行った喫茶店は覚えている?」
「覚えていますよ。じゃあ、そこでお待ちしてもいいですか?」
こうして私たちはまたあの喫茶店で再会した。
約束の喫茶店に10分遅れで駆けつけた私だったが、ナディアは奥の方の油絵が掛かっている角の席で待っていてくれた。
赤いマフラーが印象的だった。
「ごめん、遅くなって。待ったかい?」
「いえ、私も今来たところです。」
「そのマフラーとても似合うね。」
「ありがとうございます。私もとても気に入って…。」
私はホットコーヒーを、彼女は前回と同じくホットココアを注文した。
「ところで相談って?」
私はコーヒーを一口すするなり彼女に問いかけた。
相談事はてっきりウィグルと中国の関係の、あの話だろうな。
何か心境の変化があったのかな、などと想像していたが、予測は見事に外れた。
「2月はお父さんの誕生日なんです。お父さんに日本製のプレゼントを買い たいんですが、何がいいかわからなくて…。」
(オイオイ、そんなことで私を呼び出したんかいという感想を抑えて…)
考えてみれば私は彼女の父親といってもいい年齢だし、娘から相談される父親っていいもんだなどと解釈した。
「お父さんの誕生日?それはおめでとう。何がいいかな。そうだね。着るものがいいんじゃない?」
「私もそう思っていました。ウルムチはまだ寒いし、ブルゾンなんかいいかなと思って。」 「ブルゾン、いいね。でも失礼だけど結構高いよ。お金、大丈夫?」
「大丈夫です。バイトのお金をためているし、お父さんに喜んでもらいたいから。日本製のブルゾンなんて、お父さん絶対喜ぶと思うわ。」
彼女の眼はいきいきと輝いていた。
その後も彼女からはウィグルと中国の関係の話は一切出なかった。
それより、この日のために始めた水産加工会社で冷凍の魚を洗うアルバイトはきつかった。
でも時給はいいし、お父さんの喜ぶ顔を想像して頑張ったと彼女は言った。
また週に1回、近所の子どもたちにウィグルの話をしたり、簡単な中国語を教えるアルバイトも始めたと語った。
「簡単な中国語って、あなたは中国語嫌いだったんじゃないの?」
そういった後で、私は藪の中の蛇を踏むような、不用意な発言だったと後悔したが、
「子どもたちは可愛いし、中国語の発音はきれいですよ。怒鳴らない中国語 は世界で一番素敵な言葉だと思いますよ。抑揚がある中国語は漢詩などを朗読するとほんとに美しいもの。そう思うでしょう?」
彼女は中国語が嫌いではなく、怒鳴る中国語、つまり高圧的な中国人が嫌いなんだと、私は理解した。
喫茶店を後にした私たちはさっそくショッピングセンターへ行き紳士物コーナーでブルゾンを探した。
もちろんお父さん役を演じる私は試着し、恥ずかしながら姿見で見比べたりもした。
たぶんまだ見ぬナディアのお父さんは、身長は私と同じぐらいというから、こんな方なんだろうと勝手に想像しながら、ウィグル人がかぶるドッパという丸い帽子をかぶった自分の姿を想像した。
あれこれ楽しそうに商品選びをしていた私たちだったが、やがて一着のブルゾンに好みが一致した。
ベージュ色の合成皮製品だが、縫製もきちんとしているし、もちろんメイド・イン・ジャパンである。
値段を見ると約5万円。
「これいいけど、少し高いんじゃない?」
耳打ちする私に、彼女は、
「いいんです。お金ありますから。それじゃ、これ、ください。」
と、後ろに控える店員にブルゾンを手渡した。
私は商品を包装カウンターに運ぶ店員の後ろに密着して耳打ちし、勇気を出してこう言った。
「ね、知ってる?彼女はウィグルの女性。遠い中央アジアからはるばる来たんだ。これはお父さんの誕生日祝いにするんだよ。一生懸命アルバイトしてお金ためたんだ。ウィグルまで運賃は結構かかるから、ね、何とか安くしてあげてくださいよ。」
困った顔の店員は、上司に相談するため奥の部屋に入った。
そして、
「いいですよ。少し値引きさせてもらいます。」
「ありがとう。あなたいい人ですね。あなたみたいな人が日本人で嬉しい。」
自分でも歯の浮くような私のセリフに、また店員は困った顔をした。
やがて支払いを済ませ、エスカレーターに乗った私に、
「あなたはすごい。すごい人だ。ディスカウントもできる…!」
と、胸元に商品を抱きかかえたナディアが絶賛した。
「そんなことないよ。君が一生懸命バイトで頑張ったから買えたんだよ。」
そういう私の声は明らかに上気していた。
なぜなら、私にとってお店で値切 って買い物をするなんて、生まれて初めての体験だったからである。
その後私たちは食事した。
食事といってもウドンである。
福岡新天町の老舗 ウドン屋で私はてんぷらウドン、彼女はわかめウドンを注文した。
「ウドンは粉文化。これもシルクロードを伝わって日本に来たんだよね。」
「そうですね。ウィグル人もウドンは好きですよ。とくにわかめウドンなん て珍しい。友だちに食べさせたいな。食べたことないよ。だってウィグルには海がないんですもの。」
「そうだね。」
「お父さんやお母さんにこのウドン食べさせたいなあ。」
「きっと喜ぶよね。」
ウドン屋の店員は、少し顔立ちの変わった白人風の娘と、日本人の父親が買い物帰りに立ち寄ったと思ったことだろう。
やがて2月中旬、ナディアから電話があった。
「お父さんがプレゼント喜びました。あなたの話をしたら、ぜひウルムチに招待したい。来てください。上等のヒツジを用意して待っていますって。」
「いえいえ、ありがとう。そうだね。いつか行きたいね。」
「ぜひ来てください。ご案内しますよ。ブドウ畑でお腹いっぱいブドウを食べましょう。」 「ブドウよりワインがいいな。」
「いいですよ。ウィグルのワインは最高ですから。」
弾んだナディアの明るい声が受話器から響いた。
私は物静かなおとなしい彼女は、実は快活な明るい娘なんだと実感した。
4月から私の公演の仕事が始まった。
もちろんナディアの出演もエントリーした。
私はいつも通り、仕事となると、
1.時間を守る、
2.他の出演者の気持ちをくみ取る。
3.お互いに協力する
という3原則を貫いた。
出演者のみなさんは私の方針をよく理解したので、また素晴らしい公演の連続となった。
ナディアにはウィグル舞踊から「アトヌシカ」と「ティレック」をお願いした。
アトヌシカは、天山山脈の雪が解け春の到来を祝うウィグル族の祭りで、娘が浮かれて踊りだす様を表現した踊り、ロシア風の味付けの舞踊である。
一方のティレックは、ウィグル族の結婚式で、新郎新婦の前途を祝福し、来客を歓迎する珍しい踊りで、とても上品な舞踊である。
ナディアはどちらも優雅に誇らしげに舞い演じた。
4月の公演が終わりに近づいたある日、ナディアから申し出があった。
なんと、もう中国人の出演者とは一緒に仕事したくないと突然いうのである。
いったい何があったというのか?
以下、次号 (M・F)
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