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~秋季号~ 山本町長

2016年10月01日

2016年10月1日

 

ウィキペディアによると、福岡県添田町(そえだまち)は、福岡県の中央部に位置する町で田川郡に属しており、筑豊を構成する自治体の一つでもある。

 

その添田町の前町長・山本文男氏は、1926年福岡県生まれ。

炭鉱や病院での勤務を経て、1963年に添田町の町議会議員となり、1967年に町議会議長となった。

1971年の町長選挙で初当選し、以降、2010年に10期目の途中で辞任するまで40年間にわたり町長を務め、その間の連続10選のうち6回は無投票当選であった。

1999年には全国町村会長となり、こちらも2010年までその任にあった。

この間、全国鉱業市町村連合会会長、福岡県町村会長、福岡県介護保険広域連合長、地方制度調査会委員、福岡県国民健康保険団体連合会理事長、総務省顧問など多数の役職を歴任した、と掲載されている。

 

その添田町の前町長・山本文男氏が8月25日逝去した。

90歳だった。

これからは山本文男氏のことを愛着こめて、いつもどおり「町長」とよばせていただき、追悼の意とさせていただく。

 

私と山本町長との直接の出会いは2006年(平成18年)である。

添田町にある文化施設オークホールで「雑技の祭典と京劇スペシャル」を上演しようという計画が持ち上がった。

町の担当課長と実現に向けて協議を続けた。

しかし予算が足らない。 双方歩み寄るところは歩み寄ったのだが、どうしても予算が足らないのである。どうするか…。

「相談してみますか。」

担当課長に同行して私は町長室へ向かった。

それが山本町長との初対面だった。

 

もちろんそれまでに山本町長が高名な辣腕政治家として、その名を轟かしていることは知っていた。

ウィキペディアにあるように、長く添田町政に携わり、県や国の要職を歴任していること。 その政治力から国政への出馬を強く勧める者もいたそうだ。

背が高く古武士然とした風貌と、ギョロリと睨む鋭い眼光に、周囲の者はみな委縮せざるを得ないとも聞いていた。

初めて直にお会いして、やはり私も緊張した。

巷間いわれているように怖いぐらいの迫力と威圧感に圧倒された。

「話は分かった。それは子どもたちにも観せるんだな?」

「はい、子どもたちにも国際交流の一環としてぜひ鑑賞させたい。」

「分かった。何とかしよう。」

足らない予算は町長のポケットマネーでクリアし、翌2007年、オークホールの公演では町民や子どもたちの歓声が鳴り響いた。

 

時は流れた。

2008年9月、弊社が主宰する「シルクロードフェア」の会場で偶然山本町長を見つけた。 シルクロードフェアは北九州市の西日本総合展示場で開催される「西日本陶磁器フェスタ」の企画展として開催している催事である。

黒い背広の山本町長はSPや秘書に取り囲まれ、後ろ手で悠然と会場を視察していた。

トコトコ駆け寄る私を同じく黒背広のSPがさっとガードした。

「町長、ご無沙汰しています。その節は大変お世話になりました。」

怪訝そうな町長に経緯を説明すると、

「ああ、あのときの君か。ワシは観ていないが、いい公演だったらしいな。」

「ありがとうございます。町長のおかげです。私も楽しかったです。」

「それで君は何を売っているんだね。」

「私は何も売っていません。このシルクロードフェアを企画しています。」

「そうか、だったらボスだな。」

「いえ、いえ、そんな…。」

「君に頼みがある。あれとこれをほしい。業者に伝えて。ワシに考えがある。」

「分かりました。お任せください。」

 

たいそうなお買い上げだった。

商品はその夜納入し、代金も即金でいただいた。

お買い上げいただいた商品の中に、香港製で高さ1m以上ある大きな龍の置物があった。

この龍は町長室にでも飾るのかなと思っていたら、なんと”浪漫龍”と名付けられ、「道の駅・歓遊舎ひこさん」に置かれた。

町長の考えとはこれだったのである。

霊峰・英彦山(ひこさん)の麓から湧き出る天然水を地下60mから汲み上げた採水場「山霊の水」のシンボルとして、浪漫龍は町民や観光客に人気で親しまれている。

またこの道の駅・歓遊舎ひこさんの横に「こどもわくわくパーク」を造り、モノライダーなどの遊具を揃えて川遊びもできるように整備した。

子どもを大切にする町長のアイディアである。

そんなご縁からか、翌年2009年も2010年のシルクロードフェアにも、山本町長はおつきをぞろぞろ従えてお越しになった。

来るたびに私の顔を見てニタッと笑ってくれた。

立ち話ながら山本町長と親しく会話する私たちの周りをSPが怪訝そうに囲んだ。

その後、山本町長が華々しい活躍でニュースに登場するたび、このちょっと怖そうで、実は優しく、とても男らしい町長に、私は畏敬の念を感じながらも強い親しみをもった。

そして瞬く間に2年が過ぎた。

 

2012年2月、山本町長が贈賄容疑で逮捕というニュースを耳にした。

福岡県後期高齢者医療広域連合の設立に際し、町村会に有利な扱いをするよう、当時の福岡県副知事に100万円を贈ったというものであった。

まさに青天の霹靂だった。

起訴を受けて福岡県町村会長を辞任し、自動的に全国町村会長も辞任となった。

判決は執行猶予付きの有罪となり、町長は控訴せず、すべての公職を辞職した。

「あの剛毅な町長が、たかが100万円で自分の首を絞めるだろうか?これはハメられたな。」

私はとっさにそう思った。

時の小泉政権が取り組む「市町村合併」に対しても

「国はやみくもに合併へ追い立てるが、自主的な選択を認めてもよかろう。」

鋭い眼光と低くしゃがれた声で、官邸に乗り込み、小泉総理に直談判したと、人づてに聞いたことがある。

山本町長は常に添田町民はおろか、子どもたちや国家国民の将来を考える、まさにサムライだった。

 

2013年、風のうわさも絶えた頃、私は山本町長あてに無沙汰を詫びる手紙を書き、初めてシルクロードフェアの入場招待券を同封した。

9月、町長は妹さんと娘さんと運転手さんと友人夫婦を伴い来場してくれた。

眼光の鋭さは柔らかくなっていたが、いつものように手を後ろで組んで歩き、かくしゃくとしてお元気だった。

 

2014年春、田川市での仕事を終えた私は、なぜか急に会いたくなって添田町に足を運び、アポなしで町長を訪ねた。

娘婿が経営する病院の特別室に町長は居た。

「足腰が弱くなってのう。」

力なく苦笑する町長を励ましながら、私たちは二人きりで一時間以上も話しこんだ。

幼い頃の話から、青年、壮年時代の話など、町長は饒舌に語ってくれた。

「ところで、君は中国人かい?」

「いえ違いますよ。父は福岡県出身で…。」

「それではなぜ、中国やアジアに関することをやるんかね。」

「それは…。」

私たちは丁々発止、忌憚なく語り合った。

とくに町長からは、仰天する中央政治、国際政治の秘話ともいうべき話も聞いた。

大胆な話だった。

大物政治家はこんなことまで考えているのかと感心した。

しかしこの話は町長と私二人だけの秘密だから、だれにも口外せず墓場まで持ってゆくとしよう。

印象に残っているのは、

「日本は中国やアジアの手本にならなければ…。戦争ほど愚かなものはない…。 人はモノではない…。30年、50年先を見据えろ…。子どもは日本の宝…。」

 

その年の9月、山本町長は、妹さんと娘さんと運転手さんと一緒にシルクロードフェアに来てくれた。

車いすだった。

私は山本町長の車いすを押しながらゆっくりと会場を案内した。

なぜか誇らしげで嬉しかった。

 

翌2015年も山本町長はシルクロードフェアに来てくれた。

私たちは1年に1度会う牽牛と織姫のようであり、それを車いすの町長の耳元でささやくと、 「ワシが牽牛なら、あんたが織姫か」

と町長は笑った。

「町長、何かほしいものはありませんか?」

「別にないが、ワシは寅年生まれだ。強い虎の絵や置物なんかが好きじゃのう。」

「それは竹林に潜み、鋭い眼光で爪をとぐ虎ですか?それとも岩の上で月に吠える孤高の虎ですか?」

「そりゃー、月に吠える虎がいいなあ。」

「いずれにしても強い虎ですね。来年までに探しておきましょう。」

そんな他愛もない会話がいまでは懐かしい。

 

2016年、何かと多忙だった私はシルクロードフェアの入場招待券郵送が遅くなり、8月25日朝、時候の挨拶状を添えてやっと郵送した。

今年もまた会えるなと思った、なんとその日25日の夕刻、山本町長が逝去されたことをニュースで知った。

ショックだった。

すぐに駆けつけたかったが何かと取込み中だと思い、6日後の8月31日、やっとお線香を上げにご自宅へ伺った。

 

山本町長の遺影は、真っ白いランの花に囲まれ優しそうな笑顔だった。

涙が出そうだった。

ほんとうはこんなに穏やかで心優しい笑顔の方だったに違いない。

それが郷土のため、国家国民のために生きると決めた時から、己の理想を阻止する輩を、ギョロリと鋭い眼光で威圧し、低くしゃがれた声で圧倒したのだろう。

私利私欲がないから真っすぐにスジが通せるのだ。

その証拠に、差し出した香典は固く辞退された。

いかなるお方であろうとも供物、香典は一切辞退している、お気持ちだけは慎んでいただく。

これも本人の遺言なのだ。

山本町長はまさにひとすじに理想を求めたサムライだった。

 

帰宅して、求めた添田の田舎みそをなめ、添田の地酒をチビチビ。

私流の町長との無言の別れ酒だった。

山本町長の功績は紙に余りある。

これほどふるさと添田を愛し、子どもたちを慈しみ、国家国民の行く末を案じた政治家を私は知らない。

 

筆をおく前に、修験道の山・霊峰英彦山にふれておきたい。

英彦山は福岡県添田町と大分県山国町とにまたがる標高1,199mの山である。

奈良の大峰山、山形の出羽三山と並び日本三大修験道の山といわれる、山岳信仰のメッカなのだ。

この霊峰英彦山に町長は全長849mのスロープカーを造った。

およそ15分で結んでおり、今まで歩いてしか行けなかった英彦山神宮奉幣殿までの道のりを、足腰が弱いお年寄りでも楽しみながら登れるようにした。

もちろんバリアフリー対応で車いすやベビーカーのまま乗車・参拝ができるのだ。

これもふるさと添田と霊峰英彦山を愛する町長のアイディアであった。

 

なお英彦山には「彦山豊前坊」という天狗が住むという伝承がある。

豊前坊大天狗は九州の天狗の頭領であり、信仰心篤い者を助け、不心得者には罰を下すと言われている。

今ごろ町長は、多くの天狗を従え、英彦山のゴツゴツした岩の上で月に吠えているかもしれない。

ご冥福をお祈りしたい。                 (完 M・F)

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