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~夏季号~ “彼”との遭遇

2016年07月01日

それは陽のあたらない暗い場所に鎮座していた。よく眺めると黒い輪の中の小さな目がこちらを追いかけているようであった。その目は何かを訴えているような気がした。「なぜ、キミはここに…。」絶句して、しばらくその場を動かない私に、彼は、「待っていたよ!おじさん。」 そう言って微笑んだような気がした。

彼と出会ったのは2011年(平成23年)2月。九州のある地方都市が中国の地方都市と結んだ友好都市締結周年行事のプランについて、参画を求められたことに端を発する。 その市役所に出向き、担当者と親しく打合せを重ねるうち、彼の存在話が出た。それは風の噂に類するような話だったが、たまたまそばに居た別の担当者からは信憑性のある話も出た。「まさか…?」それが正直な感想だった。 「とにかく確認してみましょう。善は急げ、だ。」さっそく担当者が案内する車に乗込んだ私は、その場所に急行したのである。そして彼に遭遇した。 彼、それは“ジャイアントパンダの剥製”だった。

 

野生のジャイアントパンダは、中国西南部の高地に住み、推定で1600頭しかいないといわれるレッドリスト(絶滅危惧種)。ワシントン条約や国際自然保護連合(IUCN)や世界自然保護基金(WWF)で厳しく保護されている。 これらに加盟する日本では、とくに1992年に施行された、「種の保存法」によっても厳しく管理されているのだ。剥製とはいえ、その保有、流通も当然厳しく規制されている。なによりこの剥製は、はたしてホンモノなのか? 持ち主に親しく、かつ、いろいろ問い質した。結論として、昔のことで通関証明もなければ、売買の領収書もないとのこと。これでは真偽の判定はできない。入手した当時の経緯を、途切れ途切れの記憶をたどる持ち主から聞くのみであった。信じられない、まるで雲をつかむような話である。

 

やがてその場を辞そうとした私は、なぜか気になり再度彼と対面した。そして何もいわないはずの剥製の彼から、なぜか声ならぬ声を聴いた気がした。 「待っていたよ!おじさん。」 そう言って彼が微笑んだような気がしたのである。私は決断した。その日から私は、このパンダの剥製の身元を確認する調査に乗り出したのである。

 

その後、何度もその地方都市に出かけ、やがて私を信頼してくれた持ち主は、私にパンダ剥製に関する全権を委任した。面談の都度、私はその記憶をメモした。記憶が食い違う場面は徹底的に追求した。あわせて環境省のしかるべき所管とコンタクトを取り、いろいろと教えを乞うた。その作業にかかること数ヶ月。そして2011年6月、ついに環境省から「ホンモノ認定の登録票」を受け取ることができた。このパンダ剥製の出国は1980年。思えば31年経過して、ようやく彼の身元が証明されたのである。

 

この作業中、2011年3月11日に東日本大地震が発生し、甚大な被害をもたらした。未曾有の災害に心痛めた私は、持ち主と協議し、このパンダ剥製を被災地に運んで被災した子どもたちに見せて元気づけたいと考えた。6月にホンモノ認定が降りたのだから、7月からでもと考えたが、被災地はそれどころではない、まず展示する場所がないという事態に直面し、被災現地の関係者の方々のご意見を尊重して、まずは展示を延期することにした。

 

出番を失った彼は元の倉庫に居座ることとなったが、身元が証明されたことで気分がいいのだろう、「ボクはいつでもいいよ!」そう言って微笑んでいるような気がした。

 

風は噂を運ぶものである。「本物のパンダの剥製があるらしい」との情報が入り乱れ、いろんな話が私の耳に入ってきた。中にはおいしい話や夢のような話もあった。ひと儲けをたくらむ怪しい話もあった。それらの話を整理し、選択し、私は持ち主と協議しながら、“しかるべき人物や団体”の申し出でなければ、リース展示や、まして譲渡の話には一切応じないことを確認した。それでも憶測を含め、それはもういろんな問い合わせがあり、その一つひとつに対応しながら、こうして2011年と2012年は瞬く間に過ぎた。

 

2013年になってある観光都市の関係者から問い合わせがあった。国際交流に理解が深く、子どもたちの健全育成に情熱を注ぐ篤志家の方が興味を示しているとのこと。紹介を受けその方と面談した私は、その方のレッドリスト保護への識見と真摯な着想に好印象を得た。この方だったら間違いない。倉庫へ出向き彼と対面した私は、「いよいよキミの出番が来たよ。」とつぶやいた。

 

ところが時期が悪い。例の尖閣問題をはじめ、そのころの日中両国は冷たい関係の真っただ中。『坊主憎けりゃ袈裟まで憎い』ではないだろうに…。 「政治や経済のもめ事を、文化交流にまで及ぼすんじゃない」と考える私に、 「おじさん、冷静に、大局的に。ボクはいつでもおじさんを待っているよ。」と、彼が私に言ったかどうか、それは定かではないが、日中友好事業を長く続けてきた私にとって、彼の行く末が気がかりな仕事?であったことは確かである。

 

やがて年が明けて2014年1月9日。 多くのマスコミ陣の取材とフラッシュを浴びて彼は電撃的に登場した。あの篤志家の方が、子どもたちの健全育成のために図書を市役所に寄贈し、入手した彼を特別寄贈した。この話題に地元紙はおろか、主要紙も駆けつけ、共同通信の記者はビッグニュースとして日本全国に配信した。多くのテレビカメラのフラッシュを浴びて一躍、彼は時のヒーローとなった。

 

そして2014年3月4日。 彼は真新しいガラスケースに収まり、うやうやしくまずは市役所の正面に。お披露目式は市民の拍手と歓声、そして多くのマスコミ取材の中で行われた。  彼にはその場で「湯湯(タンタン)」という名前がつけられた。湯湯と初めて対面した市民、とくに子どもたちはまさに興味津々。この子どもたちの心に、やがてレッドリスト保護の気運が醸成されて行くに違いない。そして日中友好、平和の使者として、これから湯湯の活躍が始まるのだろう。

 

いま彼はその観光都市で大活躍している。子どもたちにスケッチされ、市民や観光客に記念写真を撮られて満足そう である。

 

「ボクはやっと本来の姿に戻ったよ。」 といわんばかりに、おすまし顔で好物 の笹を抱いて微笑んでいる。

 

2014年10月。 所用でその観光都市を訪れた私は、時間を作り彼と対面した。彼を取り囲む市 民や観光客の輪の外から、さりげなく彼 の正面に向かった私に対して、彼がウィンクした。いや確かにウィンクしたように見えた。それは一瞬おきた光の屈折の仕業だったかもしれないが、私にはそう見えた。思わず右手を少し上げて、「やあっ」と応えた私のポーズを、横にいた小学生くらいの男の子が見逃さず、不思議そうに見上げた。私は恥ずかしさもあり、何気ないふりをして横を向き、その場をそーっと離れた。

 

日中友好事業を長く続けてきた私にとって、結局この一連の作業は、結果的にとても夢のある仕事?であったことは確かである。

 

そして2年が経過した今年2016年7月。 秋の高等学校芸術鑑賞公演の打ち合わせで、久しぶりに私はその観光都市に行く。時間を調整して彼と対面するつもりだ。今でも人気者の彼は、今度はどんなサプライズで私を迎えてくれるだろうか。楽しみである。

 

完(M・F)

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