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~夏季号~  天皇さまが泣いてござった

2015年07月01日

今年は戦後70周年の節目の年。70年前多くの惨禍と犠牲をともなった戦争が終結。国民は、戦争はもうこりごりだと心に誓いました。昭和天皇も、まったく同じ心境だったに違いありません。

その昭和天皇は、戦後、足掛け8年半、約3万3000キロに及ぶ全国への行脚(ご行幸)を行いました。その逸話から…。

 

九州・佐賀県に因通寺(いんつうじ)《佐賀県三養基郡基山町大字宮浦815》というお寺があります。

この寺には、戦争罹災児救護のため、「洗心寮」が設置されていました。洗心寮には44名の引き揚げ孤児と、戦災孤児が肩を寄せ合い暮らしていました。

 

この寺の住職:調寛雅(しらべ かんが)氏と昭和天皇は、あるご縁で交友がありました。そのご縁もあって、九州行幸には「行くなら、調の寺に行きたい」との昭和天皇のご意向から、因通寺のご訪問が決定しました。

 

ところで当時、この地域は他と同じく反政府主義者がたくさんいる地域で、特に敗戦後の混乱状況でしたので、事故や暴動が起こる可能性がありました。

 

因通寺のある現在の基山町では、陛下の行幸を歓迎する人と反対する人で激しい対立が起きました。歓迎するのにも命がけの雰囲気です。反対派から何をされるか分からない。身の危険は、陛下ご一行はおろか、お迎えする町長や知事などにも及びます。

 

ある町長は知事にこう言います。

「知事さん、あなたも、おわかりだろうけど、このたび一天万乗の大君でいらっしゃる天皇陛下がこの地に来られるんですよ。私も息子をこのたびの戦争で亡くしましたけれど、おそらく息子は天皇陛下万歳といって死んだに違いありません。その息子のことを思ってみても、天皇陛下がお出でになるとき、父親である私がどうしてじっとしていることが出来ましょう。せめて陛下がお出で頂くときは、気持ちよく過ごしてくださるよう、皆でこうして掃除をしているんですよ。知事さん、心配なされんでもいいですよ。至誠天に通ず、ですよ。」

 

1949年(昭和24年)5月24日、いよいよ因通寺に昭和天皇の御料車が向かわれます。いろんな想いの群集から、「天皇陛下万歳、天皇陛下万歳」の声が自然と上がります。それは、地響きのようでした。

陛下は、群集に帽子を振って応えられます。そして陛下は門前から洗心寮に入られます。子ども達は、それぞれの部屋でお待ちしていました。陛下はそれぞれの部屋を、丁寧に足を止めてお訪ねします。

「どこから」

「満州から帰りました」

「北朝鮮から帰りました」

「ああ、そう」

「おいくつ」

「七つです」

「五つです」

「立派にね。元気にね」

陛下は一人一人にお声をかけられます。ひと部屋、ひと部屋と。

 

そして一番最後の部屋の「禅定の間」に進まれます。陛下は、その時突然、ある一点を見詰めて佇まれます。侍従長以下は「何事があったのか」と足を留めました。

 

しばらくして、陛下は一人の女の子へお顔を近づけられます。

「お父さん。お母さん…」 と、お尋ねになる。

 

女の子は、二つの位牌を胸に抱きしめていたのでした。

女の子が「はい。これは父と母の位牌です」と、返事します。

 

「どこで」

「はい。父はソ満国境で名誉の戦死をしました。母は、引き揚げの途中で、病気で亡くなりました。」

「お寂しい」

「いいえ。寂しいことはありません。私は仏の子どもです。 仏の子どもは、亡くなったお父さんとも、お母さんとも、 お浄土にまいったら、きっともう一度会うことが出来るの です。お父さんに会いたいと思うとき、お母さんに会いたい と思うとき、私は御仏さまの前に座ります。そして、そっと お父さんの名前を呼びます。そっと、お母さんの名前を呼びます。するとお父さんも、お母さんも、私のそばにやってきて、私をそっと抱いてくれるのです。だから私は寂しいことはありません。私は仏の子どもです。」

と答えました。

 

陛下と女の子は、じっと見つめ合います。

 

さらに陛下は部屋の中に入られ、右の手に持っていた帽子を左に持ち替えられ、右手を女の子の頭において、やさしく撫でられたのです。

 

陛下は

「仏の子どもはお幸せね。これからも立派に育っておくれよ」

と申され大粒の涙をハラハラと流されました。すると、女の子は「お父さん」と呼ぶのです。多くの人たちは、言葉無く佇みます。新聞記者までが、言葉をなくし一緒に涙を流したのです。

 

孤児院から出られるとき、子ども達が陛下の袖を持ち、

「またきてね、お父さん」と言います。

陛下は、流れる涙を隠そうともせず

「うん、うん」と、うなずかれ、お別れになられます。

 

そして後に、一首の歌が届けられました。

 

「みほとけの 教へまもりてすくすくと 生い育つべき 子らに幸あれ」

 

調住職はこの昭和天皇陛下のお言葉を皆に響き聞かせようと、この御製を寺の梵鐘に鋳込ませました。今でも因通寺に行くとこの梵鐘の音が当たり一帯に響き渡るそうです。

 

洗心寮を出られたあと、長い坂の下でたくさんの人々が陛下を出迎えます。

「戦死者遺族の席」までお進みになった陛下は、ご遺族の前で足を停められると、

「戦争のために大変悲しい出来事が起こり、そのためにみんなが悲しんでいるが、自分もみなさんと同じように悲しい」

と申されて、遺族の方達に、深々と頭を下げられました。遺族席のあちここちから、すすり泣きの声が聞こえててきました。 陛下は、一番前に座っていた老婆に声をかけられます。

「どなたが戦死されたのか?」

「息子でございます。たったひとりの息子でございました」

そう返事しながら、老婆は声を詰まらせます。

「うん、うん」と頷かれながら陛下は

「どこで戦死をされたの?」

「ビルマでございます。激しい戦いだったそうですが、息子は最後に天皇陛下万歳と言って戦死したそうででございます。でも息子の遺骨は、まだ帰ってきません。軍のほうから頂いた白木の箱には、石がひとつだけはいっていました。天皇陛下さま、息子はいまどこにいるのでしょうか。せめて遺骨の一本でも帰ってくればと思いますが、それはもうかなわぬことでございましょうか。天皇陛下さま。息子の命はあなたさまに差し上げております。息子の命のためにも、天皇陛下さま、長生きしてください。」

そう言って泣き伏す老婆の前で、陛下の両目からは滂沱の涙が伝わっています。

そうなのです。この老婆の悲しみは、陛下の悲しみであり、陛下の悲しみは、老婆の悲しみでもあったのです。そばにいた者全員が、この様子に涙しました。

 

やがて若い青年と思われる数十人が一団となり陛下をお待ちしていました。シベリア抑留の苦労などで徹底的に洗脳された反政府主義者達でありました。

すごい形相でムシロ旗を立てて待ち構えていたのです。恐れていた事が起こる気配です。周りの者が陛下をお護りしなければと駆けつける前に、陛下は、なんとその者達とお話になられます。

 

陛下はその者達に深々と頭を下げられます。

「長い間、遠い外国でいろいろ苦労して、深く 苦しんで大変であっただろうと思うとき、私の 胸は痛むだけではなく、このような戦争があっ たことに対し、深く苦しみを共にするものであ ります。」

「皆さんは、外国においていろいろと築き上げ たものを全部失ってしまったことであるが、日本という国がある限り、再び戦争のない平和な国として、新しい方向に進むことを、希望しています。皆さんと共に手を携えて、新しい道を築き上げたいと思います。」

非常に長いお言葉を述べられます。陛下の表情は慈愛に溢れるものでした。

 

陛下は、彼らの企みをご存知ないのです。陛下の前に、一人の引き揚げ者が、にじり寄ります。

「天皇陛下さま、ありがとうございました。いま戴いたお言葉で、私の胸の中は、晴れました。引き揚げてきたときは、着の身着のままでした。外地で相当の財をなし、相当の生活をしておったのに、戦争に負けて帰ってみれば、まるで丸裸。最低の生活に落ち込んだのです。 ああ、戦争さえなかったら、こんなことにはならなかったと、思ったことも何度かありました。そして、天皇陛下さまを、恨みました。しかし、苦しんでいるのは、私だけではなかったのです。天皇陛下さまも、苦しんでいらっしゃることが、今、わかりました。今日から、決して、世の中を呪いません。人を恨みません。天皇陛下さまと一緒に、私も頑張ります。」

と言います。

 

その時、ムシロ旗を持ってすごい形相の男が不意に地面に手をつき、泣き伏しました。

 

「こんなはずじゃなかった。こんなはずじゃなかった。俺が間違っておった。俺が誤っておった。」

と号泣するのです。その男は懐にナイフを忍ばせていたのです。

 

泣きじゃくる男に、他の者達も号泣します。

じっと、皆を見詰めて動こうとされない陛下。陛下の、まなざしは深い慈愛に溢れ、お優しい目で見つめられます。

 

三谷侍従長が、ようやく陛下のおそばに来て促され、ようやく陛下は歩を進められたのです。 陛下が涙を流された時、人々は知りました。陛下も苦しまれ、悲しまれ、お一人ですべてをお抱えこんでいらっしゃる事を。

陛下は、危険を顧みず全国をご行幸され続けます。そのお姿に、国民は「一丸となって、共に頑張ろう」と思うのでした。戦後のめざましい復興のエネルギーはここから生まれたのかもしれません。

 

晩年、昭和天皇は病床で

 

「もう、だめか」と言われます。

 

医師たちは、ご自分の生命の事かと思いましたが、

実は「沖縄訪問はもうだめか」と問われたのです。

「健康が回復したら、できるだけ早い機会に訪問したい」と決意し、最期の最期まで、国民に思いを巡らせる陛下でした。

とくに広島、長崎の原爆被害とともに、沖縄への想いは強いものがあったのです。

 

その昭和天皇の御心は、平成5年に今上陛下によって果たされます。今上陛下は、歴代天皇で初めての沖縄ご訪問をなさいました。

その時、原稿なしで遺族を前に5分間にわたって、御心のこもったお言葉で語りかけられました。

 

そのお言葉に、険しい表情であった遺族も

「長い間ご苦労様でした、というお言葉をもらったので満足しています。お言葉には戦没者へのいたわりが感じられました。陛下のお言葉でまた一生懸命やろうという気持ちが湧いてきました。」

 

「なぜか泣けて言葉になりませんでした。陛下は沖縄のことを愛しているのだろうという気持ちがこみ上げてきました。」

 

こうして昭和天皇が昭和21年2月から始められた御巡幸は、45年もの月日を経て一区切りがついたのです。

 

昭和天皇、今上天皇と受け継がれてきた「平和」への想いは、国民広くが今後とも共有し、今後とも語り継ぎ、守らなくてはならないのです。

 

完(M・F)

 

(昭和の日実行委員会、ならびに調氏の著作から引用しました)

“~夏季号~  天皇さまが泣いてござった” への2件のフィードバック

  1. 木野 幸徳 より:

    本日因通寺前住職の奥様から本を見せて貰う事と共に、『天皇様がおなきにござった』ページを見せて貰い、本のタイトルの由来が良く判りました。慈悲深い昭和天皇の姿が偲ばれると共に、平和の有り難さと今後も永遠に平和が続く事に、微力ながら努めたいと思います。

  2. 藤田雅幸 より:

    木野 幸徳 様
    何と4年前の拙文にご注目いただき有難うございました。戦争はいけませんね。私どもも微力ながら平和の永続へ努力してまいりたいと考えています。どうぞ今後ともご指導よろしくお願いいたします。ありがとうございました。

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