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~夏季号~東日本大震災:福島第1原発事故…瀕死の牛に「ごめん」

2014年07月01日

●「東日本大震災:福島第1原発事故  瀕死の牛に『ごめん』最後の世話、1日分の餌」。

この記事を書いたのは当時東京新聞社会部の記者 袴田貴行(はかまだたかゆき)さん。同紙上に 2011年4月22日付けで掲載された。 当時この記事を熟読した筆者はおろか、回し読み した社員もやるせなく、目頭を熱くした。 忘れ去 ってはいけない、風化させてはいけない事実を知っていただきたい。 だからどうしてももう一度お知らせしたい。 そういう強い思いから、僭越ながら本稿ではこの記事を抜粋して転載させていただくことにした。

●警戒区域化前日、住民一時帰宅

「一時帰宅はどこまで認められるのか」「放射線量が高いのに大丈夫なのか」。 福島第1原発の20キロ圏内を22日午前0時から立ち入り禁止にするとの21日の政府発表を受け、福島県内外で避難生活を送る約7万8000人の住民に大きな波紋が広がった。 一時帰宅への期待が高まる一方、やり残したことを「最後の1日」で済ませようと圏内を行き来する人の動きも目立った。 原発事故の影響は圏内で暮らしていた約7万8000人の営みを翻弄し続けている。

●楢葉町牧場主の蛭田博章さん

福島県楢葉町の蛭田牧場。20キロ圏外のいわき市に避難している経営者の蛭田博章(ひるたひろあき)さんは21日、約130頭の牛たちに最後の餌を与えた。 強制力のない「避難指示」の段階では、3日に1回のペースで餌やりのため牧場に入っていたが、22日午前0時以降は不可能になる。 蛭田さんは「何もしてやれず、ごめんな」と牛たちにわびた。   この日、蛭田さんが干し草を積んだトラックで到着すると、エンジン音を聞いた牛舎からは一斉に鳴き声が起きた。 まず飲み水を与え、次に干し草を一列に並べると牛たちは我先にと食べ始めた。 与えたのは1日分。牛が飲まず食わずの状態で生きられるのは約1カ月が限度という。   子牛の牛舎を見ると生後3カ月の雌牛が栄養不足で死んでおり、別の1頭が絶えそうな息で横たわっていた。 蛭田さんは重機で掘った穴に死んだ子牛を埋め、瀕死(ひんし)の子牛の背中をずっと、なでた。 「ごめんな、ごめんな」。涙が止まらなかった。   立ち入りが禁止される今回の事態を前に、牛舎から牛を解き放とうと何度も悩んだが、近所迷惑になると考え、思いとどまった。 最後の世話を終えた蛭田さんは「一頭でも生かしてやりたかったけど、もう無理みたいです。 次に来るときは野垂れ死にしている牛たちを見るのでしょう。つらいです」。 それ以上、言葉が続かなかった。

●東日本大震災3年 牛がつないでくれた縁「いつかお礼を」

「何もしてやれなくて、ごめんな」。 牧場主の蛭田博章さんは涙を浮かべ、牛の背をなでた。だが、それは「最後」にはならなかった。   蛭田さんはその後も抜け道を車で2時間走って牧場に通った。「どうしても見殺しにはできない」。すぐ後に異変は起きた。   5月上旬、牧場へ着くと、牛50頭が牛舎から外に出ていた。誰かが牛舎の柵をこじ開けていた。 半分は牛舎に戻せたが、残り半分はぬかるみにはまって動けなくなり、助け出せずに死んだ。 その後、牧場に「牛を殺すな」との張り紙がされた。   自分が書いた記事のせいではないだろうか--。 電話で蛭田さんから事情を聴いた袴田さんは申し訳ない気持ちになった。 今年3月、蛭田さんと再会した記者の袴田さんは、ずっと気になっていた牛の最期を聞かせてもらった。

●優しさと思いやり

3日おきの餌やりにもかかわらず、 栄養不足や夏の熱中症で次第に数は 減り、11年末に10頭になった。 研究機関からは警戒区域の動物の残 留放射線量を調べる検体にする提案を 受けた。 「牛の命が世の中の役に立て るなら」と承諾した。   11年12月27日。穏やかな青空 が広がっていた。横たわってかすかな 息をしている牛たちに注射をし、安楽死 させる作業が粛々と進んだ。 最後の1頭 は、4歳の雌牛だった。骨と皮だけで辛 うじて立っている。 暴れないよう固定具 を付ける際、元気な牛なら逃げ回る。 だがその時は向こうから近づいてきた。 蛭田さんが固定具を付けると、牛の大き な目から涙がこぼれた。

●牛がつないでくれた縁

蛭田さんは今、福島県楢葉町の農業復興組合で除染後の農地の保全活動に携わっている。 祖父が創業した牧場は、震災前は福島県内でも有数の規模だったが、再開は見通せない。   蛭田さんは一時、自殺も考えた。だが「支えてくれているものがある」という。 あの記事が出た際、全国から激励の手紙が寄せられた。 数人と今も文通を続け、「お体に気をつけてください」などのささいな言葉にいつも励まされる。   「牛がつないでくれた縁。まだ会ったことのない方々ですが、いつか直接お礼を言いたいんです」。 はにかむような笑顔だった。

●おわりに…。

この記事を再読して、蛭田さんも、もちろん牛たちも、袴田さんも大変つらい運命に直面していることに同情を禁じ得ない。 このように酪農家として辛い運命に涙した方々は、楢葉町以外にも富岡町にも大熊町にも、その他、福島県内にたくさんいらっしゃる。 私たちにできることは同情だけだろうか、もっと他にないのだろうか。 筆者は自戒をこめて思う。 人も牛も、生きとし生ける万物はみな優しさと思いやりで支えられている。 その優しさと思いやりを育む母は「自然」なのである。その自然を破壊して、自然に逆らって、近代科学は何を得ようとするのか。 便利さと快適さを求めすぎる私たちは、これら物質的欲望のエゴを修正しない限り、結果的に、また「想定外の天罰」を食らうような目に遭うのではないだろうか。                        (M・F)

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