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~新春号~ 川は海に出ると名前が無くなる?~平等ということ~

2013年01月07日

謹賀新年!健やかに新年をお迎えのことと拝察いたします。

さて、こういうお話があります。

一匹のネコがネズミを捕らえました。するとネズミはネコに不満をぶつけました。
「僕らは同じ動物だし、お互いに平等だというのに。君はどうして僕らを追いかけて食べようとするんだい!」
ネコはネズミが「平等」という言葉を口に出してくるなんて思いもよりませんでした。
そこで 
「そういわれても…。そんなに言うのなら、じゃあ俺様を食べてみな!」 
と言ったところ、ネズミは
「君は大きすぎて僕にはムリだ、食べられません。」
と答えました。
「ネズミよ。おまえは小さいから俺様を食べられないのだ。だから俺様がおまえを食べるのだ。」
とネコが言うとネズミは何も言えずに黙ってしまいました。ネコはたたみかけるように
「文句を言ってもムダさ。もともとおまえと俺様は平等ではないのさ。」
と言いました。

この逸話、ご存知の方も多いことでしょう。
平等とは、相手を強制して何かをさせることではありません。むしろ相手の立場に立って考え、相手の自尊心や利益に配慮して自分のことのように接することを平等といいます。つまり自分と同様に、他人も尊重すれば、まずは平等になれるのです。

ところでお釈迦様は「どんなに有名な川でも、海に出ると名前が無くなるように、どんな家柄の人でも出家するとみな等しく「釈」という姓になります。」と言い、人間の本性は平等にあると説いています。しかし問題はそこなんですよね。

 

大義の上で「人間はみな平等」と言っても、小義の上では「因果による温度差」が生じるのではないでしょうか。みな等しく成仏できるといっても、それぞれ の福徳や因縁は、人それぞれに異なるので、仏教でいうように、聖人、賢人、凡人、衆生という差異もまた生じるのではないでしょうか。人はまさに人それぞれ であり、平等にもいろいろな前提がありそうなのです。

たとえば親に平等を求めた息子が、どうして親が上座に座るのかと言い、親に自分と対等の振る舞いを求めたとします。しかしこれはその息子に、親を敬うと いう倫理観がないだけであり、また、部下が上司に平等を要求し、上司ができることは自分にもできると言い、上司と同じ待遇を求めたとします。
しかしそれは平等とはいえませんよね。長幼の序という人間としての倫理観が伴わなければ平等は成り立たないのです。つまり平等には礼儀が必要なのです。
これは学校の先生と生徒との関係においてもまったく同じ。長幼の序を欠いた師弟関係などありえないのです。

大金持ちに生まれても、両親が離婚したり、不仲であったり、さびしい生活を送る幼少時代と、貧乏人に生まれても、両親が仲良く幸せで、兄弟姉妹ともに平 穏な楽しい幼少時代を送る生活と、いったいどちらを求めますか?どちらが人間らしく平等といえるのでしょうか。

結局のところ、真の平等とは、同じ立場の中での平等であって、優劣を度外視した平等のことではありません。ネズミが主張したのは、同じ動物同士としての平等ですが、ネコが主張したのは優劣の差を前提とした平等なのです。
ネズミ、ネコ、イヌ、ウマ、サル、ヒト…。何に生まれたかによって境遇は決まるのであって、動物に生まれたのは不平等かもしれませんし、それは神の思し召しかもしれません。現世に生まれることが修行だとすれば、その試練を乗り越えるのが人間の宿命かもしれませんね。

ところで陸上競技の競争で、みな横一線になってスタートラインに並び、号砲一発でスタートする場合を考えてみましょう。各人には能力差があってスピード が違いますので、一緒にゴールインすることはできません。このように競技は能力を競いますので、これも与えられた機会の平等、公平な平等なのです。
結局私たちに与えられた平等とは、「時の流れ方」かもしれません。どんなに忙しくても、どんなに退屈をもてあましていても、時の流れは万人に平等ですから、ね!
ともあれ、どうぞ本年もよろしくお願いいたします。(M・F)

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