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~新春号~ 楊貴妃伝説

2021年01月01日

 

令和の代が3年目を迎えました。

お健やかに新年をお迎えのことと拝察いたします。

それにしても昨年はコロナで始まり、いまだコロナに振り回される今年は、また多難な1年となることでしょう。

やれやれ、ともあれ健康第一、努めて明るい年にしたいものです。

それではロマンあるお話からスタートします。

どうぞ今年もよろしくお願い申し上げます。

山口県長門市油谷の向津具(ムカツク)半島は、本州最西北端に位置する、風光明媚で自然豊かな半島です。

その位置関係から、大陸に最も近い地域の1つとして古来より多くの人々が日本の玄関口として行き交ったとされ、海を隔てた向こうの国へ、あるいは向こうの国からこちらへ往来する場所として、「向国(ムカツクニ)」と記されています。

この地名はのちに、向津具と転じていくことになるのでした。

今から1250年以上も昔のことです。

海の向こうにある唐の国(今の中国)に、玄宗という皇帝がいました。

そのお妃が楊貴妃です。

楊貴妃は、たいそう美しく、歌舞音曲の才能に秀でていて賢い人でした。

二人はとても幸せに暮らしていましたが、唐の国の中で反乱が起こり、楊貴妃は殺されることになりました。

玄宗皇帝は、嘆き悲しみました。

玄宗の悲しみがあまりにも深いので、陳玄礼という兵長が、楊貴妃を仏堂の中でしめ殺したと見せかけて逃がすことにしました。

家来に命じて空艫舟(粗末な小舟)を造らせ、それに楊貴妃を乗せ、数日分の食糧を入れて川へ流しました。

その小舟が何日も何日もたって、向津具半島の唐渡口に流れ着きました。

けれども、楊貴妃は間もなく死んでしまいました。

里人たちは、たいへん気の毒に思い、久津にある天請寺の境内に丁寧に葬りました。

一方、玄宗皇帝は、楊貴妃のことをひと時も忘れることができませんでした。

皇帝が眠っていると、夢枕に何度も楊貴妃が現れ、

「わたしは、日本の国に流れついて、死んでしまいました。でも自分を弔ってくれる人が誰もいません。それで、成仏できなくて困っています。もし、わたしを憐れに思うなら、早く弔ってください。」

と、お願いしたのでした。

このことを知った皇帝は、たいへん哀れに思い、自分の大切にしていた釈迦如来像と阿弥陀如来像を家来に持たせ、供養のため日本に送りました。

しかし、家来が日本に着いてみると、楊貴妃がどこの浦に流れ着き、何というお寺に墓所があるのか、さっぱり分かりません。

それで仕方なく、京都の清凉寺へ仏像をあずけて帰りました。

その後、楊貴妃の墓所が長門国の天請寺にあるということが分かったので、釈迦・阿弥陀の二尊仏を天請寺へ移すことになりました。

ところが、京都の清凉寺ではたいへん霊験のある仏像なので、どうか残してもらうようお願いしました。そこで仏像彫刻の名人に、そっくりな二尊仏を作らせ、清凉寺と天請寺で一体ずつを分けたということです。

このとき天請寺は、朝廷から二尊仏をご本尊さまとしてお迎えしてお祀りするので、新たに二尊院というお寺の名前を賜って、名乗るようになりました。

二尊仏は、寺伝によると阿弥陀如来像が日本で作られたもの、釈迦如来像が中国から贈られたものといわれています。

なお二尊院本堂前にある楊貴妃像は世界に2体存在し、貴妃終焉の地とされ、お墓がある二尊院と中国の陝西省馬嵬坡に同じものが建立されています。

以上、二尊院紹介資料から。

また熊本県天草の龍洞山にも楊貴妃伝説があります。

ここの銅像は美人のシンボルとして“撫でたら美人になる”といわれているようです。

お心当たりの方はどうぞ。
荒唐無稽なのは、かの山口百恵は楊貴妃の末裔だと中国の歴史学者が唱えていること。

真偽は定かでありませんが、いにしえの幻想とともに、なんだか愉快になる話ですね。

コロナ禍で痛めつけられている日本。

せめてロマンと夢は持ち続けたいものです。

(完)

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