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~新春号~ ナディアの青い空…⑧

2019年01月07日

お健やかに新年をお迎えのことと存じます。

さて2017年4月から掲載させていただいた「ナディアの青い空」と題した拙文。

おかげさまで最終回を迎えることとなりました。

これまでお読みいただいた方には、この場を借りて、文脈の不明瞭、誤字、脱字の数々をお詫び申し上げます。

固い決心をした、すがすがしいとさえ思える様相のたくましい女性がいた。

それから私たちは楽しかった公演の思い出話や、食べ物の話、日本人の良いところや悪いところ、アジアの将来についてなど、あれこれと忌憚なく話し合った。時おり笑顔があふれ、ナディアは口元を手で押さえて忍び笑いをしたりした。

とくに2009年に、父親の誕生日プレゼントにブルゾンを買った際、私が生まれて初めて値切ってくれたこと。

その後二人で食べたうどんのおいしさは忘れられないと、ナディアは茶目っ気たっぷりに回想した。

意識的に明るくふるまった二人だったが、やがて話題と話題の継ぎ目がぎこちなくなり、非情にも時間は経過した。

「それでは、そろそろ帰ります。本当にお世話になりました。私はあなたの教えを守り、これからも頑張ります。大丈夫ですよ。ウィグルに青い空を取り戻したい。子どもたちにこれ以上苦しい思いはさせたくない。私は日本で児童教育を学びました。子どもたちを自由に、のびのび育てることの大切さを日本で学びました。怯えた瞳の子どもたちをこれ以上増やしたくないから、私は頑張ります。私はウィグルの子どもたちのために、子どもたちの未来のために頑張ります。」

ナディアは『頑張る』という言葉を連発したが、私には頑張るという言葉は『戦う』という意味に受け取れた。

やがてソファーから立ち上がったナディアと、万感の思いをこめて握手をしながら、過酷な戦場に赴くであろう女性勇士の瞳を、今度は真正面から見つめて、私は怒ったように、大声で、言った。

「ナディア、死ぬんじゃないよ。また、日本へ来い!」

その言葉は私の本心からの叫びだった。

思わず抱きしめたナディアの肩はかすかな嗚咽で震えていた。

ナディアはウィグルに帰り、同志と連携しながら、中国のあの体制と戦い続けるのだろう。

自由を求め、差別をなくし、なによりウィグル人が理想とする穏やかな社会の実現を目指すのだろう。

それは青い空と満天の星に輝く、貧しくても心豊かであった故国と民族のアイディンティティーを取り戻す戦いなのだ。

たとえそれが終わりのない、不毛な戦いであったとしても、もう彼女は引き返さないのだろう。

だから、せめて生き抜いてほしいと思う。

生きていれば、いつか、また、会える。

ナディアが帰国する航空機は、2日後福岡空港を午後に出発する便だった。

私は見送りに行かなかった。

彼女が私の見送りを拒んだからである。

「私は一人で帰ります。その方がいい。そう決めたんです。」

もう過酷な戦場に赴くレジスタンス運動の女性勇士に、なよなよとした感情は禁物である。

別れに涙はいらない。

毅然としたナディアはこうも言った。

「私は日本に来てよかった。平和のありがたさが身に染みて分かった。日本の青い空とウィグルの青い空はつながっていますよね。私、頑張ります。」

2日経ち、ナディアの帰国当日を迎えた。

この2日間、私は思い悩んでいた。

ナディアを引き留めるべきか、どうか。

しかし、日本の青い空とウィグルの青い空はつながっているといった彼女の決心を、断念させる力が、私にはなかった。

ただ、ただ、彼女の強い意志を尊重せざるを得なかった。

この日は秋特有のぬけるような、穏やかな青空となった。

まるで東トルキスタンの国旗・キョック・バイラックをイメージする真っ青な空だった。

「ナディアが帰って行く…。」

私は青空を見上げ、万感をこめて、

「ありがとう。ナディア、死ぬなよ、また来いよ。」

と、つぶやいた。

(完)

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