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~春季号~ ナディアの青い空…⑤

2018年04月01日

動転しているナディアを落ち着かせてから訊いたところによると、私たちが平尾台で会ってから2日後の深夜、広島市内流川の歓楽街で、イリハムさんが何者かに胸を刺されて死亡したという。

なんということか!

警察の調べでは深夜歓楽街でイリハムさんは何者かと喧嘩になり、もみ合っ ている最中に胸を深く刺されたらしい。

目撃者の証言によると、相手は若者3名でよく聞き取れない言葉があったということから、アジア人同士が酒に酔って起こした事件であり、警察ではその場から逃走した3名の行方を追っているとのこと。

 

ナディアは断言した。

「イリハムさんは殺されたんです。彼は敬虔なイスラム教徒だからお酒は絶対に飲まないし、だから歓楽街へ行くはずがない。」

 

私は呆然としながら、何か深い闇の世界を覗いたようで慄然とした。

こんなことがこの平和な日本であっていいはずがない。

おそらくイリハムさんは何者かに呼び出されたのであろう。

それがウィグル人だとは考えられない。

ウィグル人同士なら歓楽街で会うことはおろか、人の目を気にしながらもお互いのアパートで会うとか、常に指定した場所で、それも複数で会うはずだ。

たとえウィグル人同士でいさかいになったとしても、やはり犯行場所が流川の歓楽街というのはおかしい。

また日本人といさかいになったと仮定しても、目撃者の証言にある、よく聞き取れない言葉があるはずがない。

彼の日本語は かなり正確なのだ。

だとすれば言葉巧みに彼を呼び出したのは、いったい…。

こんな想像はしたくない、信じたくないと、私は頭を振った。

翌日から私は、広島地方の地場大手新聞社や全国紙の地方版に載ったこの事件の続報記事をウェブ上で徹底的に読み漁った。

その結果、新たに分かったことがあった。

イリハムさんは周りの証言から、やはり飲酒は一切しない人物であること。

温厚な人柄であるが、ウィグルの民族問題に関しては過激な発言もあったこと。

リーダーシップが執れる人物で、広島から九州や関西、また東京にまで、在日のウィグル人はおろか、カザフスタン人やウズベキスタン人、モンゴル人に至るまでを組織して、反中国の抵抗グループを作っていたこと。

そして中国の在日公館や日本の公安警察から要注意人物のレッテルを貼られていたこと。

この秋に留学を終えて帰国の予定であったことなどが分かった。

 

彼は反中国のウィグル独立運動の危険分子として当局から抹殺されたのだろうか?

あるいは、ありえないことだが、ダブルスパイだったのが判明して、仲間から粛清されたのだろうか?それとも…。

 

いずれにしてもこの秋帰国する彼を待ちわびる家族にもたらされた、異国・日本での無残な結末を、4歳の男の子は受け入れることができるのだろうか。

ナディアはこの先、いったいどうするのだろうか?

このショッキングな事件は時の流れとともに風化し、容疑者不明のまま迷宮 入りとなってしまった。

 

ウィグルと中国の民族問題。

これは新中国誕生まで、侵略と内戦の激動の渦に叩き込まれた中国が、ようやく落ち着き、もう二度と混乱は避けるべきであ り、そのためには国境線は死守しなければならないと、新疆ウィグル自治区を誕生させたことから始まっている。

おそらく中国は、当時の旧ソ連や欧米の干渉に揺れる西域のウィグルを救い、自治区として再生させた宗主国としての自負を持っているのだろう。

なぜならそのまま放置していれば、ウィグル=東トルキスタン共和国は間違い なく消滅していただろうし、ウィグル族は飛散してまた流浪の民となったはず。

それどころか、中国に刃を向ける西側の厄介な民族となったに違いない。

だから中国のウィグル政策は正しかったのだ。

したがって中国の自治区である以上、中国中央政府の政策に従うのは当然で、それに反発するのは反革命行為だと断定しているのだろう。

しかしこのような思考が、中国人の優越意識と、ウィグル人蔑視ともとれる政策になったとすれば、いまとなってはそれも中国の独断的解釈といわれても仕方がない。

ましてそれを法の下で行うのではなく、国家のために、あの体制のために、暴力をつかってでも服従させる政策など受け入れられるはずがない。

その政策が良いか、悪いか、受け入れるのか、受け入れられないのかは、ひとえにウィグル人が決めることではないのだろうか。

一方的な同化政策を推進し、結果的に民族の言語を捨てさせたり、宗教を否定させたり、ウィグル人の誇りを傷つける行為は横暴というものだ。

自治区であったとしても、ウィグルにはウィグル人によるウィグル人のための政策を優先する政府を作るように促せばよかったのだ。

中国の大多数を占める漢族が、歴史上、異民族による支配におののき、辛酸をなめてきたのは事実だが、顔つきも、言葉も、宗教も、文化も全く違う異民族に対して、いまでも漢族は、恐怖をおぼえるトラウマを未だ引きずっているのだろうと思わざるを得ない。

 

こうしてみると、中国のウィグル政策は、やはり漢族中心の考え方たっぷりであり、そのいわゆる「上から目線」の政策ゴリ押しは、反発をまねくのは当たり前だ。

なぜ他民族の心情を推し量ろうとし、ともに協調し融和していく考えを持てないのであろうか。

とくに言語の自由を含む教育である。

また文化歴史の尊重である。

そして信仰の自由である。

手足をもぎ取られても人間に頭脳がある限り、その人間の考 え方まで奪うことはできない。

とくに理不尽なほど積み重なった恨みの根は深いものだ。

高圧的な暴力でなく人道主義を優先した人権意識と、法の下での正義の遂行には、丁寧に繰り返す対話と、細部にわたる相互理解の確認を要するのである。 そういう点で、私は腹立たしいのである。

なぜなら悠久の歴史と伝統を誇る 中国のことが、私は大好きだから、腹立たしいのであった。

また私は中国が心配なのだ。

このような政策をあの体制が強行すればするほど、少数民族はおろか、漢族の心は離れて行き、やがて国内は大混乱に陥るだろう。

何より世界中の笑われ者と化す中国は見たくない。

隣国の日本人として、中国と共存したい同じアジア人として、私にできることは何だろうか?

 

それにもましてナディアのことが気がかりだ。

イリハムさんの不可解な死のショックから、彼女は重大な決意を固めたに違いない。

おそらくイリハムさんの意志を継ぐべく、いま彼女は、ひそかに同志たちと連絡を取り合っているのかもしれない。

 

以下、次号 (M・F)

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