~新春号~ 法的にムリですか?
2014年01月01日
新年あけましておめでとうございます。本年もなにとぞよろしくお願い申し上げます。さて何かとギクシャクする日中関係ですが、築いてきた友好交流は平和と安定の王道。お互いが物事を大局的に判断するようにしたいものですね。
過日の訪中時、筆者は中国でまた一人、友人を得た。
筆者の住む北九州市の友好都市である大連市は、古くから中国大陸への窓口、優良な貿易港として栄え、今では“中国の真珠”“北の香港”と呼ばれるような近代都市に変貌している。
所用でその大連市を訪れた筆者を迎えてくれたのは、政府系の貿易会社に勤めるW氏、彼とは今回が初めての出会いだった。
元来、中国人は愛想がよく、とくに初対面の時などは人懐っこい笑顔を見せるものだが,このときのW氏、必要以外の会話はせず、仏頂面でどうやら日本人に不信感をもっているようだ。やれやれ、いろんな中国人がいるもんだ。
しかしご心配なく、お互いが心を開くまでそう時間はかからなかった。仏頂面のその彼がセットした海鮮料理屋でのこと。人と人が打ち解けるには共に食事するがよい。難しい仕事の話などは後でよい、お互いできることからやってゆこうよ。それより食べるぜ。食べまくり、飲みまくり、笑いまくる筆者に感化された彼は、ようやくその“固いよろい”を脱いだ。そして熱く語った。
以下は彼から聞いた不思議(?)な話、そのままを私なりに消化して掲載する。
曾祖父の成功と死
W氏の曾祖父は日本に渡った。1910年代のことである。当時の日本は、アジアから“一旗揚げ”にやってくる若者に、とても心が広かった。
曾祖父は、苦労を重ね東京新宿で中国料理店を開いた。腹をすかした日本人
や中国人の若者が殺到した。その中に留学中の周恩来もいたらしい。もちろん店主は腹いっぱい食べさせた。やがて店主の徳は、儲けを生んでゆく。
「いま00ほど貯金できた。土地を買った。ビルを買おう…。もう帰るよ。楽しみにしていておくれ。」
曾祖父は筆まめであったらしい。その手紙は今もW氏の自宅に代々保管しているそうで、大きなボストンバックにいっぱいあるという。
ある日、曾祖父の帰りを待っていたW氏の祖父のところへ一通の手紙が届いた。体が弱かった祖父だが、幼いころ別れた父の面影はしっかり覚えていた。
手紙は、日本で曾祖父と同居していたという日本人女性からのものだった。
「突然曾祖父は死んだ。」
「確かに曾祖父名義の財産はあるが、借金も多い。」
「日本では相続税を払わなければならない。」
「払う金がないのなら、相続を放棄してくれ。」
「そうしないと請求がゆくよ。」
ビックリした家族はあわてて相続放棄の書類にサインし返送した。
日本で火葬されたらしい曾祖父の遺骨は中国に戻ることなく、この日本で埋葬された。そして40年が過ぎた。
分かった事実
曾祖父からすると曾孫になる
青年のW氏は1998年、初め
て日本の土を踏んだ。日本へ行
く際、祖父の遺言でもあると、父
からこう言われていた。
「日本では時間を作って曾祖父の墓を探してほしい。無いとは思うが、我が家の懸案だ。ぜひ探してほしい。」
W氏から事の経緯を聞いた在日中国人の友人達が、事前に奔走しだした。その結果、曾祖父の墓は千葉県にあった。豪勢な墓所だった。まずは墓参したW氏の心に、少しずつ疑念が湧いてきた。曾祖父は借金が多かったというが、この墓は立派過ぎる。いったいどういうことだろうか? 昭和37年の東京新宿
またもや在日中国人の友人達が手分けして奔走する。その結果、曾祖父は、日本人女性との間に3名の男児をもうけていた。東京新宿に大きな飲食店を持ち、ビルを持ち、大手町にもビルを持っている。都内5ケ所に駐車場も持って
いる。これらは3名の息子達に連なる子供たちが、それぞれ管理していることなどが分かった。そしてそれらの財産は、登記簿の閲覧により、一部を除きほとんど曾祖父が生前に取得したもの、あるいはその財力が基盤となっていることが分かった。
曾祖父が急病であっけなく亡くなったことは事実らしい。しかしそのとき、財産のほうが借金よりはるかに多かったことも分かった。なぜあの時、日本人女性はウソをついたのだろう。故国で待つ、貧しい中国人家庭に、相続税の負担などと言って、なぜ脅かしたのだろう。
その後再来日したW氏は、またまた在日中国人の友人達と、日本人を含むそのまた友人達の奔走で、日本人の弁護士と会うことができた。W氏の相談を受けた弁護士は、
「大丈夫、裁判しましょう。」
「しかし私は裁判費用がありません。」
「大丈夫。着手金のみで後は成功報酬でいいから。」
3ヵ月後、弁護士から手紙が来た。
「申し訳ない。いろいろ検討したが、やはり難しい案件だ。私は降りる。」
真実を知りたいという。
「だって、3名の日本人男性は
母違いとはいえ私の祖父だし、
その息子さん達は父と同じなん
だよ。その子供達は、私と…。」
いまW氏は悩んでいる。年老
いた父親はその事実を知らない。
最初の日本行きで小さな墓があ
ったと、さりげなく伝えただけ
だ。
「父が事実を知れば、心を痛め
て早く死ぬことになる。」 . . .平成17年の東京新宿
それは悲しい。
「不合理だな。何とかならないのかなあ。」という筆者に、
「それをあなたに相談しているんだ。日本は民生に進んだ国だろう?」と、
斜めに構え、そしてW氏は、たたみかけるように、
「昔から日本との間でこんな話はよくあるよ。」と言い放った。
揺れる心
そのW氏、仕事の担当は、日本の貿易商社や投資家と交友を結び、企業誘致や斡旋を促進し、両国間の共栄をめざすもの。また大連市が誇る京劇団や雑技団の海外公演を通して文化交流を発展させること。
「コンニチハ」「ゲンキデスカ」「サヨウナラ」だけしか日本語を話さない、斜めに構えたようなW氏にとって、日本人相手のビジネスは、さぞや辛い業務だろうと推察したら、
「仕事と感情は関係ないよ。」と、さらっと言う。そしてあろうことか
「息子は日本に留学させたい。」ともいう。理由を聞くと、
「日本は中国から近くてすべてに進んだ国だから。」こういう割り切り方ができるのは中国人特有の気質だ。
「私の件?それはそれとして、あなたをはじめ、よい日本人も多いと信じているから…。」
斜めに構え、揺れ動いているであろうW氏のまなざしを思い出しながら、
筆者は今、『信義』という言葉と、『真実』という言葉の重みをかみしめている。
ただ日本人として、筆者の心が限りなくやりきれなく、そしてむなしいのは間違いないが…。
そんな混沌とした時代背景を生んだものはいったい何か?
‘72年の国交正常化以来、日中関係が発展したのはなぜか?
現状冷え込んでいる日中間の交流を活発にするにはどうすればよいか?
その冷え込んでいる主因はいったい何か?
はたしてこのままでよいのか?
改めてそこに思いを巡らせることも、必要ではないだろうか。おりしも今年は午年。前漢の淮南子にあるように『人間万事塞翁が馬』というではないか。
A joyful evening may follow a sorrowful morning.
(悲しみの朝の後には喜びの夕べが訪れる) 完 (M・F)
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