~夏季号~ 出水兵児(いづみへこ)
2013年07月02日
春4月、所用で鹿児島県西北部の出水市へ出かけた。そうあのナベヅルの繁殖地で有名な出水市である。目的は、北へ帰るナベヅルを見送りに行ったわけではないのだが、とはいえ途中繁殖地へ寄り道すると、わずか5羽を残すのみですべて北帰行の途についていた。
その夜、旨い手料理を出すという店に行き、焼酎「木挽(こびき)」を口にした。木挽は、宮崎県の日向木挽もあるが、この地では薩摩木挽に限る。酒と、とりとめのない話が進んだ頃、カウンターの左奥にあった赤いラベルの焼酎ボトル「出水兵児」が目に入った。初めて目にする焼酎だった。
「ならぬことはならぬ。」
これは佳境に入ったNHK大河ドラマ「八重の桜」第一話のタイトル。
ご承知のように、会津藩では藩校・日新館へ入学する以前に、同じ地区に住む6歳から9歳までの男児が10人前後のグループを結成。そのグループを「什(じゅう)」と呼び、その中で守らなければならない決まりを定めたものが「什の掟」だった。
すなわち、
一、 年長者の言うことに背いてはなりませぬ
一、 年長者にはお辞儀をしなければなりませぬ
一、 嘘を言うことはなりませぬ
一、 卑怯なふるまいをしてはなりませぬ
一、 弱い者をいじめてはなりませぬ
一、 戸外でものを食べてはなりませぬ
一、 戸外で婦人と言葉を交えてはなりませぬ
ならぬことはならぬものです。
什の掟は、年長者を敬(うやま)う心を育て、自らを律することを覚えさせ、集団生活に慣れるための幼少年向けの基本教育であったのである。そして最後に、「ならぬことはならぬものです!」と、びしっと強調する気迫に、頑固で一徹な会津魂を見る思いがする。理屈や能書きではない、きっぱりとした潔い教え。思わず姿勢を正すような文言に、往時の子供たちは自らの使命感と郷土愛を深めたに違いない。
いま会津には、平成版ともいうべき什の掟があるそうだ。それは市内のいたるところに設置した立て看板に、「あいづっこ宣言」と題し、こう書いてあるという。
あいづっこ宣言
一、 人をいたわります
一、 ありがとう ごめんなさいを言います
一、 がまんをします
一、 卑怯なふるまいをしません
一、 会津を誇り 年上を敬います
一、 夢に向かってがんばります
やってはならぬ やらねばならぬ ならぬことはならぬものです
さて薩摩の出水市。ここにも修養の掟があったのである。
「出(い)水兵児(づみへこ)修養(しゅうようの)掟(おきて)」。
難しい文章を平たく解説すると、
一、 人は日ごろから節義を心がけなければならない。嘘を言わず、自分勝手でなく、ひねくれず、社会のきまりにあった交際上の動作や作法を身につける
一、 地位の高い人にこびず、地位の低い人をさげすまず、他人の災難や心配ごとを見捨てない
一、 引き受けたことはやり通し、勢いよく労を惜しまず、手際よく、はっきりした態度で物事を行い、頼みにできるさまであること
一、 一時的であっても卑しい様子や、ふるまいについて語り合ったり、人を悪くいうことなど会話の端にも出さない
一、 たとえ面目を失い、名誉を傷つけられ、職を失うこととなっても、自分がすべきでないことはしない
一、 決死の覚悟を決めた時には気後れせず、その精神は強固で優しく、深い愛情がある
一、 情趣、風流を理解する洗練された心と、思いやりのある温かい心を持つことを、節義の心がけという
薩摩藩では、14歳より20歳までを「兵児(へこ)二才(にせ)」と呼び、それぞれの地区において青少年の生活規範を作り、実践させ、質実剛健、尚武の気風を励行させた。なかでも出水は、徳川幕府による薩摩監視の任をになった肥後(熊本県)と国境を接する特殊な要地にあって、とくに厳しい士気が要求され、出水の兵児たちはよくその使命感を理解し、薩摩兵児の先頭に立って修養したという。
日本の近代化を控えた幕末。それぞれが信じる大義に生きた会津と薩摩が、立場や手法は違いながらも、似たような教育施策を採っていたことに感心する。ひるがえってこれは、現代にも通用する修養論ではなかろうか。もっとも青少年育成にとって至極当たり前のことというなかれ。当たり前のことを当たり前にできなくなっているのが現代ではないのだろうか?
もっとも出水にはこのような狂歌もあった。
「味噌(みそ)なめて,晩(ばん)飲(の)む焼酎(さけ)に 毒(どく)はなし 煤(すす)け嬶(かかあ)に酌(しゃく)をさせつつ」
(M・F)
「味噌なめて碑」
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